私も最初の頃は、「とびきりの宝物を拾って、あわよくば金持ちになろう」などと愚かな考えを抱き、ひすい拾いを始めた。
だんだん回数を重ねるにつれて、海岸にはほとんどひすいは無く、たとえあったとしても品質が悪すぎて金銭的価値は全くないことを知ることになった。
私は落胆した。今まで何十回も通って、朝から晩までひすいを探したことは、何の意味もなかったのか?
しかしながら以前にも書いた如く、玉石には11の徳があるのである。
だんだんこの石について知るにつれ、これらの徳の一端を知ることにもなった。
この石には「天地」の徳がある。
欲望に駆られて、飲まず食わず、足を棒のようにして朝から晩まで歩き通すことを繰り返していると、自然とこれらの私利私欲の心が愚かしく思えてくるようになった。
そして、天と地に抱かれ、海岸をさまよっている自分が、とてもちっぽけな存在だと思えるようになってきた。
登山をして、丸一日歩いている時の感覚だ。何のために歩いているのか、分からなくなる感覚だ。
欲に引きずられて、砂に足を取られ、転びながら歩く。
海鳥は私の姿を見て、何をバカなことをやっているのか、という顔をしている。
ふと足元を見れば、青い色の混じったネフライトが落ちている。
魂を吸い込まれそうなくらい美しい色合い。
決して宝石の美しさではない。くすんだ色にもみえるが、中から滲み出すような、なんとも言えない美しい色だ。
こんな石ころが、ちっぽけな私という存在より、はるかにはるかに偉大な存在に見えた。
ひすい拾いをして、得られたのはひすいではなかった。
我が身の愚かさと、未熟さと、至らなさを自覚させられた事であった。
自然に削られた石ではあるが、なんとなく勾玉のような形だ。 |