2019年12月30日月曜日

地球温暖化の問題点

過去2000年

過去500万年
今年もっとも注目されたキーワードの中に、「地球温暖化」があげられる。
地球の平均気温が、産業革命(1760年ごろ)から比較して1度ぐらい上昇している、というのだ。
上に示したグラフは南極の氷のサンプルを使って温度を推測したものだが、1800年ごろから2000年ごろまでの温度上昇が著しいことは、一目瞭然。
登山をしていても、去年より雪が少ないとか、暑いというのは体感的に分かる。
地球の気象が激しく変動しているのは間違いないようだ。

しかしながら、過去500万年のスケールで見ると、今の気温ですら500万年前よりも2度ほど低くなっている。
そして、現代に近づくにつれて、気温の変動幅が大きくなっている。
現代は気温の振幅のちょうど頂点にあたる。

それでたまたま今の気温が高いのだからどうしようも無い、という意見も出てくるわけであるが、それは問題の本質ではない。

問題は、短期間での気温の急上昇にある。
要するに、徐々に気温が上昇する、という変化ではなくて、短期間のうちに急激に温度が1度近くも上昇した、という観測結果にあるのだ。

これは人間が大気中に多量の温暖化ガスを放出したために、地球の環境が変わってしまったことを原因として発生した。
これは過去の温度変化グラフを見ても、あまり無い現象だ。
これが地球全体の環境にどんな影響を及ぼすのか、わからない。

人類がこの急激な温度変化に耐えきれるのか、それとも、大自然の摂理によって絶滅の道をたどるのか、わからない。

しかしながら、これによって人間が過去に経験したことがないような環境の変化にさらされることだけは間違いないようだ。

大自然は、それによって造られた人間の力をはるかに超えた力によって動いている、とすれば、今後どうなるかは、明らかである。

2019年12月29日日曜日

【!注意!】正月の山は荒れる

出展:週間寒気予報 http://www.ystenki.jp/kanki.html

出展:気象庁天気図を加工して使用 https://www.jma.go.jp/jp/g3/

雪の北アルプス
正月は、いつもであるが、北陸地方や北アルプスは荒れることが多い。今年から来年にかけても、例外なく、荒れる予報となっている。

「日本海に雲がひとつ浮かんだかと思うと、何分か後には猛吹雪になる(『黒部の山賊』)」と言われるくらい、この時期の北アルプスの天気は急激に変わりやすく、一旦荒れると、何日も続く。

この「急激に変化する」気象のために、毎年正月の時期の北アルプスは、遭難者が必ず出る。近年は遭難が無かった年は皆無だ。

「なぜ、こんな時期に山に行くのだ」と、登山をしない人は言う。
しかし、雪山の美しさを知っている人は、行きたくなるのだ。

ただ、南アルプスや八ヶ岳と違い、乗鞍以北の山域は、日本海側独特の厳しい気象の影響を受ける。
日本海の湿った空気が、北アルプスにぶつかるので、雪が多く積もるのだ。
これは他の山々とは全く違う、恐ろしい環境を作ってしまう。

北陸地方の山は、1500m以上で偽高山帯になる。これは冬の雪が非常に多いために、樹木の成長が妨げられるせいだ。こんな環境になるには、どれだけの雪が必要なのだろうか?考えるだけでも恐ろしくなってくる。

湿雪とホワイトアウト、強風で一瞬のうちに行動不能になる。
その間、急激に積雪量が増大するのだ。まるでアリ地獄である。
もしもこんな気象につかまったら、その場で何日も停滞することを覚悟しなければならない、、、その間、何もなければいいが、雪崩でも直撃すれば、それで終わりである。

今年も正月は荒れる。可能な限り、北アルプスでの登山を中止することをお勧めする。
初日の出は拝めない。行くなら、太平洋側の山が良い。西高東低の気圧配置の場合、よく晴れるからである。


2019年12月28日土曜日

真実は変わる


現代に何をとち狂ったことを書くのだ、と思われるかもしれないが、天動説(地球を中心に宇宙が運動しているという説)は、13世紀ごろのヨーロッパでは科学的真実であった。また、中国やインドなどでも天動説は支持されていた。『アビダルマ・コーシャ(阿毘達磨倶舎論)』では、須弥山を世界の中心に据えた天動説が説かれていた。
世界の中心にはヒマラヤより高い山があり、その周りを太陽と月が運動しているのだ、という世界観であった。

今日では、宇宙には無数の銀河があり、太陽はそれを構成する、いち恒星にすぎず、銀河の中心にはブラックホールがあって、その強い重力に影響されて銀河が渦を巻くように回転していることが知られている。
渦を巻いている、ということは、最後にはわれわれの世界もそこに吸い込まれるのだろうか?ブラックホールの中がどうなっているのか、誰も知ることはできない。

私はブラックホールが宇宙に開いた「穴」のようなもので、そこから「外」に向かって何かが出ているのではないだろうか?と思っている。
銀河の形は、まるで風呂の水を流す時に出来る渦巻きのようである。
恒星などは、もしかしたら宇宙の「ゴミ」みたいなものかもしれない。

天動説を採用した、と言われるアリストテレスの書いた『自然学』という書物を先日読み終わった。
アリストテレスは古代ギリシアの数学者エウドクソスの同心天球仮説を自らの自然学に取り入れた、とされるが、『自然学』の中には、それだと思われる説は直接には見当たらない。
『自然学』は「運動(あるいは変化)」についての研究である。

「運動」はつねに存在していなければならない、そうでないと、ものがある時は停止し、またある時は動くことを説明できない。
運動は無限に分割することのできる軌道を、ある点に向かって移動することである。
ただし、直線上でこの運動が行われるとなると、運動が「停止」する瞬間があることになり、したがって、運動が存在しない時間があることになる、という。またこの他にもさまざまな矛盾が起こり、運動をうまく説明できない。
また、時間が存在しないと、運動は起こらない。時間と運動はお互いに不可欠な要素である。
このような矛盾の生じない場所は、球や円などの両端が閉じた線や平面である。
これだと、運動という現象をうまく説明出来るのだという。

アリストテレスは、「他には動かされないで、他を動かす存在」が、運動の連鎖の一番最初になければならない、という。これは後世のスコラ哲学などでは「神」だとされるのであるが、アリストテレスの文章には明確にそのようには書かれていないように思う。
それは「分割されることのないものであり、部分のないものであり、どんな大きさももたないものである」と書かれているにすぎない。これは実体のないものではないだろうか?

現在でも宇宙には「重力特異点(どんな計算もできない特異な点)」というものが存在する、とされている。これが宇宙の最初に存在して、宇宙がここから膨張を始める、という宇宙観もある。現在の科学でも合理的に説明できないものは、たしかにあるのだ。

とにかく、アリストテレスは円運動に特別な意味を発見していたことから、おそらくは、地球が球面状であると思っていたのではないか、と思う。
月を観察して、月に裏側があるとする記述もあるからである。
だとすれば、地球も球体である、と考えていたとしても、(アリストテレスほどの人物なら)なんら不思議はないだろう。

アリストテレスの議論には、確かに誤りも多々ある。その最たるものが「重いものはより速く落下する」というものである。
ガリレオがピサの斜塔の上から、重さの異なる球を落として、これが間違いであることを証明した話は有名である。
その他にも様々な誤りがあり、それを「観測」によって訂正することによって、ヨーロッパの科学は発展してきたのである。

ただ、アリストテレスの主張は、彼が語る論理空間の中では間違っていない。
実際の観測結果(重力加速度は物体の質量に関係なく9.8m/sである)は、論理的誤りとはまた別の話である。
このような議論は「まちがっているから無意味」だとは思えない。

アリストテレスの『自然学』は、未だに解決されていない難問(宇宙に始まりがあるのか、とか、中心があるのか、とか、重力の本質とは一体なんなのだろうかということに対する問題)を思い出させてくれるという点で、熟読するに値する書物である。

インターネットの時代に、アリストテレスを読んでいるのか、と笑う人も多いだろうが、実は私たちは案外宇宙のことをよくわかっていない。
私たちは、それを真実だと信じているだけである。

もしかしたら、その真実がひっくり返ってしまうことがあるかもしれないのに。

2019年12月11日水曜日

雪山の楽しみ


今年も雪山の季節がやってきた。
雪山には夏山とは全く違った楽しみがある。

まず、夏と違うのは「暑くない」こと。気温が低いため、汗だくになりながら登山することがない。
つぎに、雪の上を歩くため、膝や足への負担が比較的少ないこと。雪のない岩の登山道の下山は膝に大きな負担がかかる。雪の上だと、雪がクッションの役割をするので、歩きやすい。
また、雪の積もった山には虫がいない。夏の登山だと、吸血昆虫にたかられたり、スズメバチの威嚇を受けたり、マダニに食らい付かれたりと、虫に対する防御策が必要になるものだが、雪山にはこの厄介な相手が存在しない。

目の前には純白の山々が聳え、空は抜けるように青い。全く「青と白」の世界だ。
まるで「別世界」を歩いているような、不思議な感覚である。

山頂に至って、夏場は面倒くさくて持ってきていないコンロを取り出し、そこらにある雪を溶かして湯を沸かす。それで飲むコーヒーのうまさは、他に例えようもない。

ただし、このようなすばらしい雪山登山を楽しむためには、条件が必要となる。
まず「絶対に晴れていなければならない」こと。
冬場は天気が荒れやすく、雪も降りやすい。山はいったん雪が降ると、前が全く見えなくなる。いわゆる「ホワイトアウト」になってしまう事が多い。
このような時に、山に入る事はオススメしない。非常に寒く、降雪が激しくなれば雪崩の危険が大きい。
大雪の降った後の晴れ間は、もちろん雪崩の危険があるが、降雪中よりはずっとましだ。
悪天候の中の登山は、最も雪崩が発生しやすい。

また、雪山で一番危険なのはやはり「雪崩」である。
標高が高く、樹木のない斜面はとても危険である。簡単な刺激で、雪崩が発生する可能性がある。
山を遠くから見て、真っ白になっている山は、樹木以上に雪があるか、岩山であるかであるが、私はこのような山には行かない。

雪山登山はとても楽しいものであるが、それに比例して危険も高くなるのは事実である。
人間は低温にはとても弱い生き物である。
山の寒さは、下界でずっと暮らしていると、想像もできないほどである。
簡単に命を失ってしまう可能性がある。

十分注意して、登山したいものだ。

2019年12月10日火曜日

牛岳 今シーズン初雪山 スーパーフィートは健在

雪山のシーズンがやってきた。
初めての雪山は、「富山県の展望台」、「牛岳」(987m)。
この山頂からは富山平野、砺波平野の全体を見ることができる。日本海はもちろん、能登半島までも見える。
最高のロケーションに加え、コースの整備が行き届いており、夏場なら初心者でも比較的容易に登頂できる。
冬はさすがに難易度が上がるが、山頂から望む純白の北アルプス、白山の絶景は一度見たら忘れることができない。
まるで牛の背中のように両側が切り立っており、稜線は扇のようになだらかである。
稜線の向こう側は、『日本の秘境』五箇山の深い山々が連なっている。
雪山としては、利賀の金剛堂山についで2番目ぐらいのレベルだろうか。

スーパーフィート。これ無しでは登山できない。今回もこれを冬靴に入れてチャレンジ。
旧9合目ベンチから。今日は快晴だ!

山頂トラバースコースとの分岐。積雪10cmほど。標高780m付近から雪が積もっていた。

新7合目から、利賀に続く国道。五箇山の深い山々

富山平野方面を望む。

稜線を800mほど歩くと、三角点山頂(987m)に近付く。

山頂に立つ。目の前には北アルプスの大パノラマ。朝日岳から黒部五郎岳、穂高まで見える。

呉羽丘陵から富山平野。

砺波平野

霊峰白山

山頂標識

今回は道が良いので、神社まで行けそうだ。

牛岳大明神より、北アルプス。今日は登山者が多く、4グループぐらいと会った。

牛岳スキー場方面。ほとんどの方がこちらから登られるが、私は庄川町側から来た。

宝達山方面。石川県側の日本海まで見渡せた。こんな絶景を見られて、ラッキーだった。

昼食を摂って、また山頂に引き返す。

僧ヶ岳から、剱岳に連なる山並み。

利賀側からの登山道。ここはまだトライしたことはない。

山頂には、電信柱が1本立っている。これは、何の施設なんだろう?

山頂付近は美しいブナ林になっている。もっと厳冬期になると、樹氷が付く。



すこし藪がうるさい場所もあるが、いまの時期、これぐらいの藪は普通だ。

稜線を降りる。

登山口に戻ってきた。


2019年11月28日木曜日

境界 境 この世とあの世


一度死亡宣告を受けて、また生き返った人の話をまとめた本によれば、臨死体験をした人々にはいつも共通するイメージが現れるという

川やお花畑、なんとも言えないような安らぎ、そして比較的多いのが「トンネル」体験である。
トンネルのような暗い場所を通ると、目を開けていられないほどまぶしい光に覆われ、そこに誰かが居て、怖がらなくても良い、と言うらしい。
その存在に出会うと、非常な安らぎを感じると言う。
昔の書物、仏教の経典などではこの存在を「阿弥陀仏」と解釈したり、「キリスト」であると解釈したりするものが多い。

また逆に恐ろしい存在であるヤマ(閻魔)が現れて、その人を責めるというパターンもあるという。



科学的には脳内物質の異常によって起こされる幻覚であるが、人間の脳に同じようなイメージが刷り込まれているのは不思議だと思う。

トンネルというのは、山を貫通する。山は現実の世界でも「境界」になっている事が多い。市の境、県境、そして以前は国境であった。
特に親不知という地域は現在でも、海と山、西日本と東日本、空と海、県境となっている。また川の河口にあたるため、海と川の境でもある。
このように、非常に多くの「境」が集中する場所なのである。こういう場所は日本全国探してもなかなか無い。
この地域に魅せられて何度も通っているが、全く飽きることがないのは、このような特殊な環境であるからだと思う。

室町時代にはここを舞台として能の名作「山姥」が作られ、江戸時代には松尾芭蕉も奥の細道からの帰りここを訪れ、俳句を詠んだりしている。小説家の水上勉も親不知が好きで何度も訪れている。

ここを越えると「異界」に入る。今までとは全く別の、新たな世界に行くのである。



旧北陸本線の親不知トンネルを歩いていると、かつてここをどれほどの人が蒸気機関車に乗って通ったのだろうか、という思いがとめどなく湧いてきた。

北陸地域から東京に行くには、このトンネルを通らなければならない。
召集されて戦地に赴く兵士、就職列車、大学生、いろいろな事情を抱えて、このトンネルをくぐって、あらたな世界に行ったのである。
その思いが、ひしひしと感じられた。これらの人々はみんな今は生きてはいない。
こういう思いが感じられた、ということは彼らの霊魂がこの場所に宿っているからかもしれない。

私もいずれは生と死の境界を越えて、新しい世界に行くであろう。
「境界」は越えなければ先に行けない。
その先には、どんな世界があるのだろう。
楽しみである。


2019年11月27日水曜日

勝山海岸と天険親不知で久しぶりのヒスイ&旧北陸線トンネル単独行

久しぶりにヒスイ拾いに行った。
収穫は全くなかったが、海岸を歩けてかなりリフレッシュ。
帰り道、「天険親不知」に寄り、旧北陸線トンネルを単独行。
かなりの急坂を下ると、海岸近くにトンネルがある。長さは600mほどか。
それでも、トンネルの向こう側は”点”にしか見えない。非常に暗く、懐中電灯が用意されていたが、私は持たずに入った。
誰もいない。恐ろしかったが、肝試しみたいな感覚でなんとかクリア。
トンネルの向こう側を上がると、「親不知コミュニティー道路」があり、素晴らしい景観を楽しめた。
今日は終始曇りだったが、日本海は曇りが似合う。
晴れているのとは全く違う趣があった。

勝山海岸は先日の高波で流木だらけだった。しかし、何もなかった。

子不知高架橋。国道8号線がこの上を通っているのだ。細い橋桁だなあ。

勝山大雪崩遭難碑。大正11年2月3日、豪雪の除雪作業員を乗せた列車が、この場所で大雪崩に遭い、92名の犠牲者、30名の負傷者を出した。この場所はあまりの険しさのため、冬になると大雪崩が発生するようだ。

何も拾えなかったので、前から気になっていた旧北陸本線のトンネルを歩いてみることに。

これがトンネルの入り口。向こう側は点しか見えない。

とりあえず、一番下まで降りて、ヒスイを探してからにしよう。

昔の人は、こんな場所を歩いたんだな。ただし、今は海岸が狭まっているが、以前はもっと広かったらしい。

さて、トンネルに突入。だれもいない。薄暗いトンネルだ。かなり長い。こういうのに耐性の無い人は、たぶん無理だと思う。

600mほどほとんど暗黒のトンネルを単独で歩いた。向こう側が見えた時はほっとした。

向こう側の出口。ここから、上の道路に向かって登るのだが、これがまた急登できつい。足の弱い方は無理。

やっと上の道路。日本海特有のどんよりした雲。下は断崖絶壁。

砥の如く、矢の如しの石碑。親不知の岩が削りやすかったので、この石碑があるという。要するに、岩を砕くとすっぱり切れ落ちた、ということだろう。

下を覗くと、まさに垂直の崖が迫る。

ウォルターウェストンの銅像と展望台。遠くからみると人が座っているのだと勘違いした。ウェストンはここを北アルプスの起点だと考えていた。

まっすぐに山が海に落ちている様子が分かるだろうか?自然はこんなすごい光景を造るんだなあ、と思ってしばらくの間、物思いにふけってしまった。

親不知高架橋と歌高架橋。

この地域に来ると帰りに必ず寄る「たから温泉」。なぜかここにしか寄る気がしないんだよね。源泉掛け流しだ。すばらしい泉質である。ここの湯に入ると、すべての疲れが取れるような気がするのだ。味はマグネシウムをたくさん含んているからか、塩辛く、苦い。