2020年12月24日木曜日

登山をやめる口実

 


”だが、それにもかかわらず、今日、私は認めざるを得ないーーー自分が変わったという自覚を持たないにもかかわらず、山に対するこの愛着が、砂の上を退いていく波の様に、私から離れていくのを。私の想いは同じであるのに、山の方が私から去っていくのだ。”レヴィ=ストロース『悲しき熱帯』Ⅱ「森で」(邦訳 p.278)
レヴィ=ストロースは、海よりも山、そして最後には「森」が好きだ、と告白している。
海は余りにも人間臭く、山はあまりにも孤独だ。しかしそれは狂ったように人間に求められる場所でもあり、結果人間に近い場所になってしまった。
「森」は生物の多様性を持ち、高山の山頂よりも「人間」から隔離された環境である。
この文には、私も深く賛同する。
森は人間の道を覆い隠し、自然のなかに解消させる。
しかもそこは非常に豊かな場所である。レヴィ=ストロースが日本の山を愛したのは、豊かな樹林帯があったからだと思う。
そこはたしかに「最も人間のいない場所」である。

近代式登山は、森の価値をあまり評価しない。頂を極めることが目的だからだ。
だから、眼下に広がる豊かな森林は、そこに至るやっかいな障害物でしかない。

レヴィ=ストロースが森林にひかれていったのは、それを障害物ではなく、豊かな多様性の存在する、おそらく地球で唯一の場所であることを感じたからだと思う。
森を発見した以上、もはや登山を続ける理由は無いのだ。

アマゾン川の流域に広がる広大なジャングル。その中に暮らす人間を研究していた彼は、その中で、現代の社会の深層に位置する構造を見出す。
それは決して貧弱なものではなく、近代文明社会と同等に豊かなものだ。
そこに暮らす人間と、西洋文明の中に暮らす人間は、同じである。
ただ、住む環境が違うために、習俗や文化が異なるように表面上は見えているだけなのである。

西洋文明社会はアマゾン先住民を「野蛮人」ととらえて、自分たちの文明の優位性を強調する。
「首を狩るような野蛮人と、コンピューターを操る最先端の人間のどこが同じなのか」と西洋文明の人間は言うだろう。
「野蛮人」は憐れむべき人間だ、キリスト教によって文明化しなければ救われない、と言いつつ、どれだけの文化を破壊してきたことか。
逆に、彼らが軽蔑している「野蛮人」の文化によって、西洋文明社会の文化が強制的に破壊されたとしたら、西洋文明社会は、いったいどう思うだろうか?

実際、西洋文明は「野蛮人」に対して、首狩り以上にひどいことをしてきたのである。
そのため、現在先住民族は文化を失っている。
これは世界中で同時進行中の出来事でもある。

人間が多様性を失い、単一化されつつあるのが、まさに現代社会である。
しかしながら、それは人間の中にある深層「構造」が、失われたことを意味していない。
それらは、外観を変えながら、間違いなく我々の社会の奥底にある。
だからこそ、言語は多様性を今でも失っていない。
日本語があり、英語があり、フランス語があり、中国語がある。
表面は単調に見えても、実際には何も変わっていない部分がある。
その仕組みが、森の中にある。

その森を破壊することは、破壊するものが自らの首を絞めることになる。
事実、人類は新型のコロナウイルスによって、殲滅されかかっている。

2020年12月19日土曜日

レヴィ=ストロースと仏教

 


レヴィ=ストロースは『悲しき熱帯』の最終章「チャウンを訪ねて」において、仏教とイスラム教の比較文化論を試みる。
これが、アマゾンの調査紀行文の最後に置かれるのは、意味深い。

アマゾンにおけるレヴィ=ストロースの調査旅行は、絶望を伴うものであった。
なぜなら、そこで見たアマゾン先住民族の生活は既に西洋文明に影響されて、本来の姿を失い、「消えかかっている」ものであったからだ。
西洋文明の「暴力性」に対して、彼は大きな疑問と自責の念にとらわれる。
彼自身、征服者としてのヨーロッパ人に他ならなかったからだ。

そして彼がインドの古代仏教遺跡の「タクシーラ」で見た、ギリシャ、ヒンドゥー、仏教の平和的「混淆」を、イスラムの謹厳主義、排他主義と比較し、仏教の文化を未来につながるものとして、おおいに評価している。

しかしながら、人間社会の理想を示していると評されたこれらの仏教は遠い昔に消滅し、今はイスラム教徒によってその痕跡まで破壊されつくしている。レヴィ=ストロースの考察は大体にして間違っていなかったことが、証明された形になっている。

闘争と破壊、一旦支配者が変われば前の文化はことごとく破壊してしまう、という人間の根源的な心理「構造」は、今でもその勢いを弱めることはない。
人類に本当の意味での「平和」が訪れる日は来るのだろうか?

2020年12月11日金曜日

人間社会のしくみ 半族とカースト

 


『悲しき熱帯』Ⅰに書かれている、いわゆる「インディアン・クロス」という図柄。
例えばこんな図柄である(ペルーのシビボ族の描いた絵)。
これは南米の先住民族の中で共通してみられるデザインであり、もともとは顔に刺青したり、描いたりされていたものらしい。
左右に分割された領域は、それぞれ部族の半分を表しており、上下は「女性の交換」すなわち婚姻関係を表す。
これは要するに、先住民社会そのものを象徴している。
曲線があれば直線があり、描かれる位置は逆対称の関係になっている。
このような社会のしくみを持つ先住民族に対して民族学者は「半族」社会と名付ける。
これは半族同士で女性を交換する「外婚制」を取る。

一方の「カースト」社会では、このような図柄を顔に刺青したり描いたりするのは、その人が「なにものであるか」を示す記号になっているという。微妙な図柄の異なりは、その人の「身分」を表したりするようだ。
まず、絵が描いてあることによって、野生動物と区別される。そして図柄の異なり(描かれる場所)によって「カースト」が示される。カーストを持つ社会では同じ身分同士で婚姻関係が結ばれる。これを「内婚制」という。インドではこの内婚制が厳格である。

ブラジルにはこの「半族」社会と「カースト」社会の民族が混在しており、もちろん同じ部族の中で両者が混在している場合もある。

この「半族」社会と「カースト」社会は、人類共通の社会「構造」であり、太古の昔から現代社会まで、全く変わらず、人間社会の根っこの部分に存在しているものである。
現代のような複雑な社会でも、基本はこの構造で出来上がっているものが人間社会だ、という。

今の社会も「アメリカ」と「中国」などの「半族」に分割しうるし、昔とたいして変わっていない。
相変わらず「カースト」は存在する。ただ、その外観が変わっているだけである。

複雑そうに見える社会も、元をたどれば意外と単純なものなのかもしれない、と思った。

※ レヴィ=ストロースは、先住民社会はこのような「半族」で単純に分割できるわけではなく、実際には半族社会とカースト社会が混在しており、同じ部族の中でも分割に対してまったく異なる認識を持っていることを指摘した。
「半族」という分割が実際に存在するのかすら疑わしい。先住民社会を正確に理解するには、非常に複雑で表面には見えていない「構造」を理解しなければ不可能である、という事である。
これは『構造人類学』の「双分社会は存在するか」に詳しく書かれている。

2020年12月5日土曜日

改めて自分の人生をふりかえってみて

 

2020/8/20 薬師岳山頂から奥黒部の山々を望む


『野生の思考』を読み直したついでに、『悲しき熱帯』を読み直している。
これも同一著者(レヴィ=ストロース)による有名な本である。
ただ、これは「エッセイ集」のようなもので、レヴィ=ストロースが自分の「探検」について書いた著作である。
『悲しき熱帯』も愛読書なのであるが、これは別格である。
なんというか、読むたびに新しい発見がある、といおうか。
晦渋ですぐに読んでも理解できないレトリックが使われている文体のため、一回読んだだけでは意味が分からないようになっている。
これも「スルメ」の類の本なのである(スルメの本を買うと、書籍代がかからなくて良い。読むのに時間がかかる本ほど、コストパフォーマンスは良い(笑))。
「気取り屋」的文体を「読みにくい」と言う人が多いと思うが、この本はこれ以降のフランス文学の文体に影響を与えたという。

しかし内容は私にとって衝撃的なものばかりであった。
ブラジルの先住民族調査の旅のエッセイなのであるが、最初から「私は旅が嫌いである」という文章から始まる。
この本はレヴィ=ストロースがブラジル先住民族を調査して感じた「幻滅」についてが主題なのだ。
そして「西洋文明」に対する強烈な疑問、そしてそれの代弁者であったレヴィ=ストロース自身が自責の念から起こした文章である。

私はこの本を読むと、1文1文に深く共感する。
私の今までの人生でずっと考えてきたことが、この本のわずか一章に「すべて」書かれていることもある。
これほど意味深い考察を、私は読んだことがない。

神話の中のインディアンのように、私も大地の許容する限り遠くまで行ってみた。地の果てに到達すると、私は生命や物体に問いかけ、神話のインディアンの少年と同じ幻滅を知った。「少年は涙をぼろぼろこぼしながら、そこに立ち尽くした。祈り、そして呻きながら。だが、何の神秘的な音も少年には聞こえてこなかった。まして、呪力を具えた動物たちのいる神殿に、眠っているあいだに連れ去られるべく眠り込みもしなかった。彼にはまったく疑問の残る余地はなかったーーーどこからの、いかなる力も、少年には与えられなかったのだ…」(『悲しき熱帯 Ⅰ』「4 力の探求」、邦訳p.55)

この一文の中に、私の今までの人生すべてが含まれている。
今までいろいろな事をやってきたが、すべてがこのようであった。

剱岳の山頂に立った時、そこにあったのは登山者の残したおにぎりと酒、異様な形をした人工的な玉、そして意味の理解できない「モニュメント」であった…。

海岸をあるいて「神秘の石」を探し回ったが、そこにあったのはテトラポッドの投入された海岸、大量に投入された土砂、発泡スチロールのかけら、誰かが捨てたミャンマーの奥地から運ばれてきた「ひすい」のかけらであった…。

今、こうやって家の中にいて、中古品のパソコンを改造して、この文を書いている。
外は雲南省の僻地にしかいなかった、新型のウイルスが蔓延しているため、自由に出歩くことすらできない。
こんなウイルスは、人間が近寄りさえしなければ、決して出てくるはずのないウイルスであった。

西洋文明の力で人間が活動して求めてきたものも、結局は「幻滅」に終わるものでしかなかったのか。

2020年12月4日金曜日

深刻 新型コロナウイルス感染症(COVID-19)のAI予測

参照元:COVID-19 感染予測(日本版)

https://datastudio.google.com/u/0/reporting/8224d512-a76e-4d38-91c1-935ba119eb8f/page/ncZpB?s=nXbF2P6La2M



※ 12月4日のデータと、5日の予想データが大きく違っています。
昨日見た時はびっくりしましたが、今日見ると妥当な数値になっています。
AIはトレーニングデータが変わると、予想が大きく違うみたいですね(あまり優秀じゃないAIみたいで、安心しました(笑))。
以下の記事はあくまでも12月4日時点で予想されていたデータに基づいています。

GoogleがAI(人工知能)を用いて新型コロナウイルス感染症の感染予測を公開している。

これによれば、12月2日から12月29日までに新たに日本で21万5千人以上が感染し、500名以上が亡くなる予想になっている。

これはにわかには信じられないほどの予測である。
今日(12月4日)以降は少し減少に転じ、9日辺りから徐々に増加し、19日以降は急激に増加している。
特に12月後半からの急速な増加予測は注目すべきだ。
クリスマスイブの12月24日、1日で2万1千人以上の陽性者が出るという。
今は一日2500名ほどであるから、約8.4倍に増えることになるだろう、というのだ。

今でさえ医療現場はひっ迫しつつあるので、このレベルになれば全国の医療現場がたいへんなことになるのは目に見えている。

ただ、これはあくまでGoogleの開発したAIが予想していることであり、必ずそうなることはない。
AIの予想は、投資予測などランダムな事象に対しては弱い事が言える。
「感染症」は統計がある程度はっきりしているので、感染拡大の傾向などは、ランダムではないと思われる。
そのため、「必ずそうなる」わけではないが、このまま行けばこれに近い状況になってしまう、と思われる。

しかしながら、私たちは未来を変えることが出来る。
ただ、「現状のまま」であれば、今後このような事態になってしまうことが、十分あり得るという事なのである。

マスクの着用、うがい、手指消毒、三密を避ける、などを実行し、十分に警戒しなければならない。

今年は忘年会などはしないほうが良いだろう。

2020年12月1日火曜日

がまんの3週間

 


11月21日から始まった連休まえから、国は「がまんの3週間」を要請していた。
今、3週間目に入っているのだが、相変わらず新型コロナの感染者は増え続けている。
11月最初ころに少し外に出たが、それ以降はなるべく不要不急の外出を避け、会合もキャンセルしたりして家の中で過ごしている。

「大丈夫だ、コロナなんてそこまで警戒しなくていい」という人も一部にはいるようだが、たいていは皆マスクをし、密を避けるように努力していらっしゃるように見える。

大都市圏では病床がひっ迫しており、国も相当危機感を持っているようだ。
施設があるものの、専門の技術をもっておられる看護師の方々が不足しており、これ以上増えると、他の病気で診察を受けに来た人が診療を受けられなくなる「医療崩壊」が起こる。
病院は今、とてもひっ迫している。

こんな時にレジャーなどで大けがをしたりすれば、病院にたいして大変なご迷惑をおかけすることになる。
私が危険なレジャーを避けているのは、そのためである。
今は緊急時である。いつもと違う心づかいがどうしても必要ではないか?

また、外に出かければ新型コロナウイルスに感染するリスクが高まるのは間違いない。
今は家に居よう。

2020年11月29日日曜日

純粋でないほうが強い

 

純粋でないほうが面白い

ひすいは純粋な形で自然界に存在することはまれである。
たいてい、蛇紋岩や曹長岩などが混じっている。エジリン輝石、コスモクロア輝石、オンファス輝石などはひすいの変種であるが、これも純粋とは言えない。
一方のダイヤモンドは”純粋な”炭素の結晶である。

ダイヤモンドは一番硬い物質であるが、強い衝撃を加えると、簡単に割れてしまう。
一方のひすいはハンマーで思い切り叩いても割れることは無い。
これはひすいが、粘り強い硬さ(靭性)をもっているからだ。
ひすいは細かい結晶があつまった集合体で、単結晶のものはめったに見られない。
また、その間隙にさまざまな不純物を含んでいる。
これらの要素ががひすいの強さを作っているのだ。
ちょうどコンクリートに、鉄筋や砂利が入って頑丈さを作っているように。

何でも集まっているものは強い。
人間の知識でも、いろいろな知識が集合していると、柔軟性があり、いろいろな状況に対処できるものだ。

何でも、状況に合わせてパッチワークのように作り上げ、生活の用を足すアマゾンの先住民は、現代人と比べてたくましく見える。
科学なる一つの方法でしか対処できない現代人は、状況を分析してその場その場で臨機応変の対応をすることが出来にくいように思う。

野球にしてもそうだ。ひとりひとりの選手は無名でも、有名選手をかき集めて作ったチームに楽に勝つことがある。
それは、ひとりひとりの力が強くても、その「関係」の力が無いとどうしようもない、ということを示している。

『野生の思考』では、「ブリコラージュ」(器用仕事)のすばらしさが強調されている。
何かの役に立てるため、分析的知性を最大限に使い、その状況に最適なものを生み出す能力が人間には備わっている。
「科学理論による設計」によって作られるものより、もっと直接的に役に立つものをその場で作ってしまうのである。
これは「いいかげん」である、として今までの世界では忌み嫌われる傾向があった。
科学の作るもののほうが、エレガントで知性的だ、という理由で。
これは、とてもつまらないことではないか?

物を食べるのに「銀のスプーン」を使う必要は必ずしもない。
そこら辺に落ちている空き缶を石でたたいて作ったスプーンでも、物を食べることは出来るのであるから。
どちらも「物を食べる」ことには変わりはない。
ただ、その「形」が違うだけである。

2020年11月28日土曜日

医療崩壊寸前

 


夏の間はおとなしかった新型コロナウイルスがまた猛威を振るってきた。
東京、大阪など大都市圏では、急速に感染が広まってきて、医療崩壊寸前である。
今は、特に登山は控えておいたほうがよさそうだ。今まだ余裕があっても、今後3週間の間にどんな状況になっているか、まったく予想できない。病院に迷惑をかける可能性のある「危険行為」はしないほうが良い。

なかなか終息の兆しが見られないコロナ。
自然のリズムの中で、人間が自然破壊を繰り返し、科学の名の下でバランスをおかしくしてしまった結果なのかもしれない。
科学は人間中心主義の思考法である。人間以外の存在は「物」「物質」でしかない。
「西洋文明」が一番優れている、という思考は批判されたが、今度批判されるのは「人間」中心主義かもしれない。

昔の人たちは、自然との共生を社会のシステムに組み込んでいたと思う。
今のように、電気も石油も何もない状況の中で、木を燃やして暖を取り、畑を耕作し、海で魚を釣り、生きていたのである。医療も進んでいなかったので、多くの人が死んだのであるが、それも自然のバランスを保つ要因だったわけだ。
人間だけが数を増やすという状況にはなりえなかった。

人間は自然を「敵」とみなして発展してきた。厳しい自然環境を変えることで、これだけ数を増やしてきたのである。
「人間中心主義」が生まれるのは、当然の成り行きだったと思われる。

しかし、あまりにもそれが進むと、自然の循環システムが壊れてしまう。
地球は一つの生命体だ、という「ガイア理論」によれば、人間はバランスを壊している最大の存在だ。

自然のシステムがバランスを取るためにコロナウイルスを送り込んできた、とすればとても恐ろしいことだ。
われわれは、自然にとって「多すぎる」存在だとみなされているわけであるから。

自然を「敵」だとみなして発展してきた人類は、逆に自然にとって「敵」でもあったわけだ。

2020年11月27日金曜日

『野生の思考』が愛読書のわけ

 


クロード・レヴィ=ストロースの『野生の思考』という本が好きな理由を書いておこう。
レヴィ=ストロースは人類学の偉大な学者であるが(10年ほど前に100歳ぐらいでご存命であった)、単なる人類学者ではなくて、世の中のものの考え方(思想)分野に大きな足跡を残された学者である。
「構造主義」という、物事の背後にある「モデル(構造)」を発見する学問を進めた人であり、非常に広範な教養を持っておられ、一時代を作った学者である。

今となっては古典であるが、『野生の思考』は当時の実存主義哲学者であるサルトルに対する「論難」の書である。サルトルは当時のヨーロッパ哲学の最先端を行く「哲人」であった。

西洋哲学や科学が、ヨーロッパ独自の発展であり、もっとも高度な思考であり、その他の「未開民族」の思考は動物に近い程度の低い、愚かな思考方法であり、進んだ西洋文明によって啓蒙されて当然である、という考え方を、レヴィ=ストロースは見事に論破する。
事実、「未開民族」とされていた人々の思考は、構造において「西洋科学的思考」と等質である。つまり劣ってもおらず、優れてもいない。

『野生の思考』はとても難解な著作であり、理解することがとても困難で、今でも「するめを噛むように」楽しんで読んでいるのだが、何度読んでも着眼点のすばらしさ、ものごとの背後にある「言葉では言い表せない」ほど複雑な「構造」をあきらかにしようという姿勢には心を打たれる。
この「構造」は人類共通のものであり、環境によって動的に変化する。
半世紀前にレヴィ=ストロースによって提示された課題の一端が解明されつつあるのであるが、この書がいかに独創的な着眼点をもっていたか、示すにはこれで十分であろう。

「構造主義」は様々な分派をしたが、その基本は「ものごとの背後にある普遍的な仕組み」を解明する点、または、「明らかにされえない部分」を示すこと、である。
すべての物事が「明らかにされえない」ことも確かである。人間の知性の限界、というものは確実にある。
『野生の思考』で示されるモデルは、複雑な人間社会の「構造」の最も単純化されたモデルに過ぎず、これをもってすべての「構造」が明らかになるわけではない、ということを知らなければ、著者の意図を誤解してしまうことになるだろう。

著者が一番言いたかったことは「西洋文明」ですべてが解決できるわけではなく、かといって「未開社会」の文明がすべてを解決していたわけでもない、という事である。

あくまでも「人間の思考」の限界が、どの辺にあるのかを示しただけである。

2020年11月18日水曜日

曹長岩に付いている石

以下の石は、曹長岩で良いと思うのだが、付着している石が何なのか、判断に悩む。
光を良く通すから、石英だとも言い切れない。石英ならば、黄色っぽい光の通し方をする。
これは純白というよりは、少し青っぽい。

石全体はカクカクしており、硬そうな感じ。
表面はつるつるしている部分もある。
ひすいのような、微細な結晶も見られる。しかし石目が無い。

とてもきれいなので、キープしているが、こういう石はほんとうに悩ましい。
 
光を通すと、少し青みがかった色。なんだろうこれは?
灰ひすいとも少し感じがちがうような。
ガラスみたいな

 

コロナがまた流行してきた

 


各地で新型コロナの感染者が過去最多を更新している。
そういえば最近は警戒していない人が目立つようになっていたな。
国もGO TOキャンペーンを中止するつもりは無かったようだし、その影響でずいぶん混雑するところも出ていた。
まだまだ、もとの生活に戻るのは早すぎるということであろう。

こういうことは国が率先して動いてくれないと、どう判断してよいものか、分からなくなる。
ある人は警戒し、ある人はまったく問題にしていない状況がある限り、感染拡大は止められない。

ワクチンにしても、言われているほどの効果があるのか、ウイルスが変異しても効くのか、副作用はあるのか、まだ分からないことだらけだが、もしも本当にワクチンが開発されたら、私は受ける覚悟をしている。
コロナを恐れながらなにも出来ないなんて、悲しすぎるからね。

2020年11月16日月曜日

技術は設計図でしかない

なかなかコロナ禍がおさまらず、テレワークの比率がふえている。
これは仕事をしていることになるのか、あるいは、仕事をする計画をしている仕事なのか、境界があいまいである。
普通に現場に出て、多くの人と接し、「社会活動」をすることが出来ない以上、結局は自分の脳内での技術をパソコンに移しているだけの作業ではないか?
「技術」は持っているだけではただの設計図でしかない。
実際の場面で運用してこそ、意味があるものである。

先行きが見えない現状を嘆いていても仕方がないが、今の状況がずっと続くことを考えると、暗澹たる気持ちになる。政府やマスコミは少しでも明るい情報を発信しようと必死になっているが、人が集まれば感染爆発が発生し、多くの人々に死をもたらすウイルスが蔓延しているかぎり、普通の社会活動をすることはできない。

押しつぶされそうな気持。
下の写真はひすいが圧縮されて石の間にばらばらに含まれている「圧砕翡翠」と思われる石。
今の気分にぴったりな石なので、載せてみた。

ほとんど曹長岩であるが、一部にひすいが見える。ぼこぼこしていて削られていない白い部分がひすいだと思う。

光をよく通すのは、石英の特徴。曹長岩はひすいとちがって石英を含む。曹長岩とひすいが共存するのは、糸魚川の石の特徴だそうだ。圧砕タイプのひすいは見た目がワイルドで、アクセサリー用には使えない。台でもこしらえてそのまま鑑賞するか、盆栽の飾り石として使えば映えるだろう。

2020年11月10日火曜日

石の美しい緑色をカラー解析

石の色が美しかったので、色の種類を解析してみた。
緑には違いないが、どんな種類の緑だろう?
ひすい色というのは、カワセミの羽のような色だとよく言われる。しかし私はカワセミの羽の色を見ると「青緑」色である、と感じる。どちらかと言えば「含ニッケル珪質石(きつね石)」の緑色が近いのではないだろうか?
私のイメージするひすいの色は、もっと黄緑がかった、濃い緑色である。

Windows10で解析する場合は、ペイントのカラーピッカーを使う。
いちばんきれいだ、と思う部分の色コード(16進数)を取得する。

ペイントで画像を開き、右側のスポイトで色を取得する。

色コードは「6EDA60」であった。これが何色なのかを以下のサイトの色見本で調べる。


 石の色見本

結果は、密接に関連するのが、

  • 海緑色/シーグリーン(#8AC75A)
  • スペアミント(#79C06E)
  • もえぎ色(#A9D159)
  • ライム/ライムグリーン(#5AFF19)
  • 浅緑(#84C98B)
という結果になった。

ライム系緑と、灰色が混じった緑色。やはりくっ付いている石が灰色なので、その色が混じっている。
デジタルで数値化してみると、肉眼では見えない色が出てくることがあるようだ。
今度いろいろな石で試してみよう。

2020年11月9日月曜日

危険なキイロスズメバチ

 この間の石拾いの時に刺された「キイロスズメバチ」は、特に気をつけなければならない種類のスズメバチであった。

刺されたときは「アシナガバチ」である、と思い込んでいた。足が黄色いのと、体が小さかったからだ。
しかし、アシナガバチの活動期間は3月から9月。これに対して、キイロスズメバチは3月から11月ごろまでと、活動期間が長いのが特徴である。

毒も非常に強いようで、私の場合は刺された直後に腫れた後、一旦腫れが引き、2日後に最もひどい腫れが来た。後の腫れは、手の全体が腫れあがるほどであり、こんな事ははじめて経験した。
刺された直後は非常に痛く、いったい何が起こったのかわからないほどであった。とっさに毒を吸い出したが、かなりの量の毒を注入されているな、と思った。

下手をすると「アナフィラキシーショック」という急性の症状が出るおそれもあったと思う。
小柄なハチだが、相手は危険なスズメバチである。甘く見ていると命取りになると思った。
このハチは活動範囲が広いことも特徴で、都市の真ん中にも巣を作ることが出来るほど環境適応能力がある。ゴミ箱の中にも巣を作ることがある、という。

「まさかこんな寒い時期にハチがいるわけがない」という思い込みは危険だ。また、海岸のすぐそばにいるわけがない、というのも無駄な先入観にすぎない。
むしろクマが出ないか、と恐れていた位だ。
実は、アウトドアフィールドではクマに襲われて亡くなるよりも、ハチに刺されて亡くなる人の方がずっと多い。

今回は「まさか」という想定外が重なった。自然の中では何があるかわからないのだ、と改めて思った。
拾った石に光を通して鑑賞。こんな美しい緑色は見たことがない。たとえひすいでなくてもいいや。

痛い思いをしたのだが、何とか一つだけ、きれいな石を拾えたことは不幸中の幸いだったのかな?


スズメバチは崖の上に巨大な巣を作ることもあるらしい。刺したのは一匹だけだったので良かったが、こんな場所で行動不能になったら大変だった。

2020年11月6日金曜日

もしかしたら灰緑ひすいかもしれない

昨日拾った石は、すべてひすいではない、と思っていたのだが、一つだけもしかしたら「灰緑」なのかな、と思う石があった。
脈状に入った蛍光緑は、金山谷系の黒翡翠によく見られるものだ。
境目がはっきりあり、糸巻きのようにも見えなくもない。
明らかにきつね石やロディン岩やクリソプレイズの緑色とはちがう。
比重も2.9と高めだ。
ただし、この石は表面に大きな結晶があり、ほんとうにひすいなのかどうか、自信がない。
灰色の部分はとてもひすいには見えないので、曹長岩であろう。

電灯の下で見ると、こんな感じの石。脈状に入る緑が写真ではうまく出ないけど、蛍光緑だ。
左から、以前拾った金山谷系の黒緑、昨日拾った灰緑と思われる石、比較の為、含ニッケル石英(きつね石)
以前拾った金山谷系黒緑。灰色の所も光を通す、けっこう気に入っている石。
きつね石と思われる石。緑色の色相は青緑系。典型的な色なのでわりと悩まない。
昨日拾った石。灰色と、明らかにきつね石とは違う緑色。脈状の蛍光緑が入る。ただし、表面に大きな結晶が出ているので、曹長岩の成分がかなり入っているのかも。比重は2.9ある。これだけあれば、石英ということはない。輝石系の石だと思う。角閃石の緑ではない。
光を通してみる。透過はそれほど良くない。部分的に光を通す部分があり、この色はひすいに特徴的な色をしている。
表面は部分的に光沢あり。しかし、大きい結晶があるので、それほど良質の石ではないような気がする。

 

2020年11月5日木曜日

今日は久しぶり勝山 ハチに刺される トランプ氏的敗北

本日は久しぶりに勝山へ。
しかし、波が弱くなっておらず、しかも全体が砂でおおわれている。
天候は良かったが、最悪のコンディション。
波足が長く、とても水際まで近づけない。
そのため、収穫はゼロ。騙されていくつか大きい石を拾ってきたが、すべてダメ。それでも少しひすいを含んでいるのではないか?今日は勝利だ、とか往生際の悪い事を思ってしまう。
まるで大統領選挙のトランプ氏みたいに、負けを認められない!
そうだよ、君は負けたのだ。潔く負けを認めたらどうなのか(笑)

そんなことを思っていた時、岩場に差し掛かり、手を岩にかけた瞬間、激痛が走る。
手を見ると、スズメバチのようなハチが刺していた。今の時期にハチなど、予想もしていなかった。
しかも海岸だ。自然の中では何があるかわからないものだな。
ポイズンリムーバーは持っていなかったので、とっさに口で吸いだした(これは緊急時以外、やってはいけない。口に傷があると、そこから毒が入ることになる)。

悶絶する痛みが襲う。しかし、ここでくたばってたまるか、と思い、しつこく吸い出す。
おかげでしばらく腫れていたが、帰るころには腫れがおさまっていた。

今日はいつになく、探しにくい日であった。しかも災難。
ついていないときは、とことんついていないものだ。
こういう時は諦めてとっとと退散するのが吉だ。

しかし紅葉が素晴らしく、荒れた海と晴れた空に浮かぶ光景は素晴らしかった。
うねりを伴う大きな波。海岸は砂だらけ
こりゃだめだ。海岸に近寄れないではないか
とりあえず、テトラの裏に回ってみるが、波しぶきがひどく、命の危険を感じるほど
子不知までやってきたが、ここも砂だらけだ
勝山は紅葉している
とてもきれいだった
イノシシか何かの骨だな。崖から落ちたのだろうか?
下にはとても降りられないので、護岸壁づたいに歩く。このあたりでハチにやられる。
最後まで波はおさまらなかった。
今日拾った石。見たところ曹長岩かな?この緑色はひすいだとか思ってみるが、これはニッケル石英ではないだろうか?
これも曹長岩だろう。痛い思いをした割には、なにも得られない日であった。ついていない時は、とことんついていないものだ。潔く敗北を認めることが必要だ。

2020年11月3日火曜日

人間社会とひすい


 今日は外に出られない。天気も良いのだが、いろいろと雑用があってね。
少しの時間、ブログを書いてみる。

海岸には無数の石があって、どれ一つとして同じ石は無い、ということは前回のブログで書いた。
その中からひすいを含んでいたり、貴重な石を探すことは、至難の業であるとも。

これは人間社会でも同じで、ひすいのような人間は100万人に一人もいない。
特別の才能に恵まれたり、ひとの役に立ったりできるような人間も同じである。
これは単純に努力をすればできる、という問題ではない。
例えば、ロディン岩がどれだけひすいになろうとしても、最初から無理なわけである。
ただし、ロディン岩はひすいを含んでいることはあるけれども。
また、ひすいを含んでいる岩石はけっこうあると思う。ただしそれはひすいであるとは言えない。
純粋なひすいなど、広い海岸の石の中にはほぼ存在しない。

石英などはそもそも、ひすいを含んでいることもない。

それでは、ひすいを含んでいない石は美しくない、というのだろうか?
いや、決してそのようなことはない。
むしろひすいを含んだ汚い石ころよりは、石英の方が美しいこともある。
つまり「材質=美しさ」ではなく、美しさは独立した価値なのだ。

広い海岸はいろいろな石が集合して、まるで宇宙のミニチュアだ。
さまざまな成分からなる石が、波に洗われて丸くなってはいるが、文字通り、数えきれないほど集合している。
この環境自体が、私の心に美しいという感覚を呼び起こす。
この海岸全体が、美しいのである。

人間はその中でひすいを探しているが、その価値は誰が決めたのか?
昔の人が呪具や装飾品、交易品として求めたからであろうか?
しかしひすいは5億年前からあるのに対して、人間の歴史はたかだか3、4百万年である。
海岸に普通にある石の歴史ですら、どんな人間の歴史より長いであろう。
自然の側から見れば、人間のやっていることはたいしたことではない。
ましてや自然は、自ら「美しくなろう」と思って美しくなったわけではない。

自然の世界は実に複雑である。人間社会はこの複雑な自然を単純にし、人間にとって利用しやすくするために努力してきたのだが、なかなか思い通りには事が運んでいないようだ。
人間もしょせん自然のリズムの中の一つであり、いつ消滅しても不思議ではない。
地球の歴史は過去にいろいろな生物の絶滅を経験している。

この海岸の横にある青海黒姫山も、かつて大繁栄したサンゴの仲間が作った石灰岩でできている。
近くには、石の間に挟まれた我々の先祖である貝や節足類の化石を見つけることが出来る。

たとえ人間が絶滅したところで、この大自然のリズムは少しも影響を受けない。
大したことではないのだ。

広い視野でこの世界を改めて感じてみると、自分の、そして人間社会の小ささを強く思うのだ。
われわれはしょせん「井の中の蛙大海を知らず」だと。

2020年11月2日月曜日

縄文人になった気持ちで

 


私がBloggerでブログを書くようになってから、3年も経つんだよね。実に早い。さすがGoogleだけあって、安定性は格段によく、広告(国内サービスだと、ターゲティング広告で結構不快な広告が出ることがある<自分のせいか(笑))は出ないし、操作は単純、HTMLやCSSの知識があれば、思う存分カスタマイズできるし、とても気に入っています。
以前書いていたWordPress.comも素晴らしかったが、広告が出るようになってしまったのだよね。
Bloggerは難しいと言われるが、欧米ではBloggerの方がメジャーな存在なんだぜ。
ブログ書くなら、noteよりもBloggerだよ、と宣伝しておく(笑)。

余談はさておき、本題に戻ろう。

今はコロナ禍の影響で、石を鑑定してくれていたフォッサマグナミュージアムの「石の鑑定」サービスがお休み中である。
ということは、自分で石の見分けが出来るようにならないと、「ひすい拾い」は難しいということである。
以前からしばしば書いているように、ひすいと曹長岩、ロディン岩、石英その他の「きつね石」との判別は、極めて難易度が高い。

一発でひすいと分かる石ならばよいのだが、そういう石は現在の海岸には、ほぼ存在しない、と思っていただければ間違いないと思う。
海岸への土砂の投入、上流の治水工事、海流の変化、防波用テトラポットの投入などで、海岸に打ちあがるひすいが激減しているのが主な原因だろう。

年々難易度が上がっているひすい拾いだが、これは昔の人にとっても同じだったようだ。

よく引用される万葉集の
巻13-3247
沼名川(ぬなかは)の 底なる玉 求めて 得し玉かも 拾(ひり)ひて 得し玉かも 惜(あたら)しき 君が 老ゆらく惜しも 

という歌からは、当時姫川の底からヒスイを拾ったことがうかがわれる。つまり、海岸で簡単に拾えたわけではなかったのだ。万葉集の時代にはすでに苦労しないと得られなかったと思われる。

これを見てしまったら、今拾えるひすい混じりの石など、そこらへんに転がっている石ころと同じである。

昔の人は、どのようにしてこれらの石を探したのであろうか?
まず、例えばブラジルの先住民などは、自然に対する知識が非常に豊富であり、それだけで辞書を作れるぐらいの動植物、鉱物などに対する知識を持っていると言われる。
彼らが日常的に自然に接し、どの動植物が生活の役に立つのか、またどれが危険なのか、ということが重要であるために、このような知識をたくさん持っているのであろう。
それらが単に知識としてだけではなく、様々な記憶を記録するための記号として使われているとも言われる。
彼らは現代の科学者と同じような視点から、それらを整理し分類しているのである。

だとしたら、縄文人もそのような視点を持っていたのではないか、と思うことはあながち間違いではないと思う。
そのような視点を昔の日本人が持っていたなら、私の中にもそれがあるはずではないか?

今度行くときは「縄文人になったつもりで」、海岸を歩いてみたいと思っている。

2020年10月31日土曜日

自然の造ったものに同じものなど存在しない

 


海岸に転がる石ころには、何一つ同じものなど存在しない。
私は石を拾うようになる前は、そんなことすら知らなかった。

「石」というのは、皆同じものだと思っていたのだ。
似た石は確かにあるが、まったく同じものは、まったく存在しない。
たとえコンクリートのかけらであっても、ガラスの破片であっても、自然によって磨かれることで、ぜんぜん別の形のものになる。
丸いもの、角張ったもの、ざらざらしたもの、つるつるしたもの…大きさも、色も、バラエティーに富んでいる。
いろいろなものがまじりあっていて、どう言葉で言い表したらよいのか、まったく分からなくなるほどだ。
そういう存在が、無数にあるのだ。

良く考えてみれば、私たち人間にも、誰一人として同じ人間はいない。
みな少しずつ、違っている。
科学的に同じ存在だ、としても、形や色まで同じであることはない。

宇宙というのは、このように複雑な存在が無数に集まって出来た複合体である。
人間はそれに対して数値で物差しをあて、あれが同じで、これはちがう、と言っているにすぎない。
そんな理想的な存在が、現実にどうして存在するだろうか?
私たちは、じつは「本当には存在しないもの」に惑わされて右往左往しているのかもしれない。

現実そのものは、決して「こうだ」と決定できるものはない。
複雑すぎて、それを正確に言い表す方法がないのだ。

海岸の石ころたちは、私にそういうことを教えてくれた。

2020年10月27日火曜日

有峰紅葉最盛期 大多和峠まで

人を案内して有峰まで。
紅葉最盛期、観光客が多数。
今年初めて登頂した薬師岳を下から眺める。とくに大多和峠からの景観がとてもよかった。
北アルプスはすでに積雪があるようだった。今は秋と冬の境目で、登山するのは難しいだろう。
ヘリも飛んでいたので、もしかしたら遭難があったのかも。
上の方は雪面が光って見えたので、凍結している可能性がある。
八ケ岳の行者小屋のブログにも書いてあったが、今の時期、雪が溶けてアイスバーンになることがあるそうだ。
雪が浅く、アイゼン、ピッケルが役に立たないコンディションの事もある。
登ったは良いが、凍結の為身動きが取れなくなる人もいるそうだ。
こんな時期は、下から紅葉を眺めていたほうがよいであろう。
クマの対策はしていったが、ついに一頭も見かけなかった。
折立のキャンプ場にはまだいるのだろうか?
全山紅葉
薬師岳は、1800m三角点ぐらいより上は積雪あり
有峰ダムの横から
大多和峠から薬師岳
越中沢岳から浄土山、雄山に至る稜線
空の雲がきれい
北ノ俣岳も積雪しているな
黒部五郎岳はかなり雪がありそうな雰囲気だ
大多和峠の地蔵尊
大多和峠の標高は1295m
大多和峠より先は通行止めとなっている。かなり前から開通していない雰囲気がある
ダムサイトまで戻ってきた。有峰湖の水量は少ない
折立と有峰ダムコースの分岐
勾配の急な坂道に車を停めて、しばし撮影
和田川が下の方に見える。かなり切り立った谷である。