『やきもち焼きの土器つくり』を読了。
レヴィ=ストロースは『構造人類学』の中で手法を説いた「神話論理」によって、土器の起源に関する南北アメリカの神話を解析していく。
そのために集められた神話は非常に多岐にわたる。使用された主な神話は、巻末に付論として示されるから、これを読むだけでも十分価値はある。本文では、既刊の神話論理4部作から引用されている神話も多く、詳しく知りたいならこれらの神話も知っておいたほうが良いであろう。
彼が「動物素」と呼ぶ神話に登場する動物たちは、ヨタカ、ナマケモノ、アリクイ、コウモリ、フクロウ、オポッサムなど非常に多いが、これらをアメリカ先住民たちは構造の格子を利用してうまく入れ替え、神話のストーリーを作っていることが分かる。
それに人間の排せつ物その他の要素、性の問題、嫉妬、インセストタブーなどフロイト心理学で重視される要素が組み合わされる。
レヴィ=ストロースはこれらの神話が、フロイトの創始した精神分析学よりはるか以前に精神分析と同じような機能を果たしていた、と言うが、本文をお読みになればその意味がよく理解できると思う。
なぜこれらの神話が語られたのか。それは人間の心の中の葛藤を調停するためである。
そしてこれらは「呪術師」たちが社会を維持するために使うものであった。
土器がなぜ作られたのか、その謎をさまざまな自然・生理現象にあてはめ、人間とともに生きてきた動物たちの世界を記号化して説明するのである。
先住民族においては、これこそが「言語」であり「文字」である。
「先住民族は文字を持たないし、したがって文法も持たない」というのは、たいへんな誤りである。
彼らは形になっていない「言語」を持ち、自然を観察してその中に「構造」を見出し、自然現象そのものを「記号」として、彼らの世界を組み立てていたのである。
レヴィ=ストロースは、ジークムント・フロイトが精神世界を「性的要素」に還元する手法を批判しているが、それはその中に何か「本質的価値」を見出そう、ということが誤りなのである。それは神話を構成する要素のごく一部分にすぎず、全体的に考えることではじめて意味を持つものである。
ユングは「原型」という形で、現実の心理に及ぼす影響を形式化して見出そうとするが、それも何らかの「本質的価値」を見出そうとする点で同じ誤りである。(これらは「現代版の神話」だという事もできる)
そうではなくて、人間心理というのは固定化できる実体ではなく、何らかの形の無い構造によって仮に表れているものだ。それは決してでたらめでは無く、きちんとした「論理」を持っている。
神話の中にそれが表れたものこそが「神話論理」であり、それは豊かな人間精神の原動力なのである。
だいたいこのようなことが述べられていると思うが、印象深い一文があるので、それを引用して締めくくりたい。
まだまだ読み込みが浅い、と思うが、豊かな内容に私の貧弱な理解力が付いて行っていないことをお許しいただきたい。
こうして日本語の書字体系は、2種のコードを使いこなしているのである。テクストの意味は、いずれか一方から浮き上がってくるのではない。二つが分離されると不確実な部分を除去できないからである。意味は、両者の相互的噛み合わせから生まれてくる。神話において観察されるのもこれに似た情況である。ただ、神話においては、より多くのコードが働いている点が異なっている。
(『やきもち焼きの土器つくり』「ヒバロ版「トーテムとタブー」」(p.274)より)