2021年1月18日月曜日

本質を知らない人間が、何かについて書けるのか?

 


先日、ミシェル・フーコーの事を書いたが、彼の著書の中に『狂気の歴史』という大部のものがある。
本文は読んだことがないが、彼を批判したジャック・デリダ(フーコーの弟子である)によれば(『エクリチュールと差異』,pp.59-121)、彼は「理性」によって「狂気」の歴史を書いただけである、という。
(デリダの文章もずいぶん難解であるが、それは批判対象が難解だからであり、論理自体は明快である)

「狂気」を書くには、それが理性によって客観的対象になっていなければならない。そうでないとそれについて書けない。フーコーが基づいているのはデカルト的な「コギト(=自己意識)」であり、それは正常である、と神によって保障された理性なのである。狂気はそこで理性によってあらかじめ「排除」されているのである。

つまり狂気を説明するには、書いている本人が「理性的」でなくては書けない。
真に「狂気」を説明するには書いている本人が狂気でなければならないはずだが、そもそも狂気というものは「仕事の不在」(同書p.88)であり、沈黙である、とフーコー自身が言っている。
そんなものが理性によって書かれうるのか?というのが批判の骨子である(「狂気そのものの歴史を書くということは、したがって、或る沈黙の考古学をつくりだすということなのであります。しかしながら、まず第一に、沈黙それ自体には、はたして歴史というものがあるでしょうか」同書p.66)。

狂気というものが何かも知りえない人に、狂気の歴史が書けるわけがない。
しかもフーコーが基づいている「理性」というものも、たしかにそうだ、といえるものではない。
狂気との違いは、それが神によって認められているか、否かでしかない。
だからこそ、神の保証が必要なのである。

”要するに理性の危機とは、理性への接近であり、理性の発作でもあるのです。というのは、人々が狂気の発作と称するものと奇妙に共犯的な、理性の発作が存在する、ということだからであります。”(『エクリチュールと差異(上)』、p.121)


 この批判を読んだフーコーは激怒し、以来デリダとは断交したという。
喧嘩は怒った方がたいてい負けであり、デリダの批判はずいぶん痛い所を突いていた、ということになる。

ともかく、何かについて書く時は、その対象となるものをよく理解していないといけない、という事である。
特にそれが、自分からほど遠い世界のことである場合、それらについて何か書くと「知りもしないくせに、何を偉そうなことを書くのか」と手痛いしっぺ返しを食うことになる。

私がいろいろ書いていることも、知りもしないくせに好き放題に書いていることが多いと思う。
まあ、このブログに書く文章も、しょせん無意味にキーボードを叩いて、頭の中の「残りかす」を出しているだけのことであるから、まじめに読んでいただく品質にはなっていないけれども。

しかしながら思うのは、フーコーの文章は、はっきり言って難解である。
私が勉強不足だからわからないのかもしれないが、これだけはどうしても理解できない。
分かりやすいことを、わざわざ難解に書いているようにすら思える。
そういう人の思想が、共通テストの問題の一部に含まれる事に、私は疑問を隠しえないのである。