2021年1月16日土曜日

人間の頭の中にある世界は「関係」で出来ている

 


例えば、人間が真っ白な紙(tabula rasa)を見た時、そこに「文字」を見ることはできない。
そこに何か「有色」の、白以外の要素がある時に、何らかの形が見える。
ただの「点」や「線」では文字にならない。
ある規則性に従ったアルファベットで綴られた、一定方向に描かれた「映像」が頭の中にあらかじめあって、それを思い出すことが必要だ。
しかしそれでも、それは文字だと認識するには、まだまだ多くの他の条件が必要なのだが。

とにかく、「文字」が普通の映像と違うと認識できる「最低」の条件は、それが形を持っていること、である。
有色<>無色の対立があってこそ、何らかの視覚刺激が脳細胞に伝わるのである。
(「言語活動の機構はすべて、いずれのちに論究するが、このたぐいの対立と、それが内含する音的差異および概念的差異にもとづくのである」『一般言語学講義』、p.169)

この対立関係が、非常に沢山かつ複雑になったものが私たちが考える「世界」の実体である。
これは生まれた時、いやそれ以前から、脳が作られる前の遺伝情報の中に組み込まれている。
だから、人間が頭の中に作っている「世界」は、一種の刺激の総体のようなものだ。
それが実際に「ある」のかどうか、わからない。それは人間という種が、そのように勝手に思い込んでいるものであるかもしれない。もし「ある」「ない」という関係がなくなったら、それらの「世界」は無くなってしまうだろう。

仏教では「ある」「ない」以前の世界を「空」といっている。
それは言葉で説明できない世界だ。
しかもそれこそが、ありのままの世界である。これは人間だけでなく、あらゆる動物、動物でない存在、宇宙そのものを含んだ(含む、ということも誤りだが)世界である。

実はそれは遠い所にあるわけではなく、目の前にあるのだ。
別に特別な経験などせずとも、毎日の生活そのものが、よく見ればそのような世界である。
そこには「文字」「概念」などもあり、いま見ている世界そのものである。

どんなものごとも、よく観察すれば「空」でないものはない。
それはでたらめな世界ではなく、「原因と結果」「お互いに他を原因としている」という世界である。
「関係」がなければ、この世界は現れない。

これらの文字も、白と黒の関係がなければ、まったく見えないだろう。

近代言語学の祖であるフェルディナン・ド・ソシュールも、言語の本質は「示差性(差があること)」である、と言っている。
これは仏教の考え方とまったく矛盾しない。
"a"と"b"は、白色とは違い、aとbが違うものである、と認識されるから文字だとわかるのである。