宝石質のひすい。こんなのは1年に1回拾えれば良いほうだ |
両方ひすいなのだが、まったく違う石に見える |
「野生の思考」的、私流のひすい観を書いてみよう。
① 形、色、結晶はバラバラに見ていては意味をなさない
「丸い石はひすいでない」
「ひすいとは角張った石である」
「結晶が確認できないとひすいではない」
「比重が3以上ないとひすいではない」
これらは必ずしもひすいを判定する際に決定的な要因とはならない。
確かに鉱物学的には、ひすい輝石の比重は3.22-3.3ぐらいである。
しかし、角閃石、ロディン岩の比重も3以上ある。
結晶質の石はほぼ比重が3以上あるのだ。
では、何を根拠にひすいを判断すればよいのだろうか?
それは、上記の要素を総合・統一的に見なければならない。
ひすいとは上記の要素が複雑に入り混じった存在である。
敢えて言えば、その全体が「美しさ」を持っていなければならない。
探索行動は「経験的演繹」によらなければならない。
② 表面が荒れているか、滑らかかも意味をなさない。
表面が荒れている石もかなりある。
「つるつるだから」ひすいである、ということはない。
③ ひすいは周りの石との関係性の中で浮かび上がる
最後に、ひすいが落ちていた場所の周りが結構重要である。
ひすいは周囲の環境の中で、その場所を自然の力によって定められる。
落ちている場所は、だいたい決まっている。
この石があるところには、だいたいあるなという石はある。
それも経験的推論によるしかない。
ひすいは色も、形もばらばらである。決して教科書通りに探せば見つかるというものではない。
海や大地の発するメッセージを受け取ることが肝要である。
その場の環境に一体化するというか。
言葉では説明できないが、ともかく自然に対する感謝の念、畏敬の念を持てばそこには別の世界が開けている。
ひすい拾いは、自然とのコミュニケーションである。