2021年1月17日日曜日

違いがわからないと、ひすい拾いもできない


 最近難しいことばかり書いているが、これは「ひすい拾い」の影響かもしれない。
「示差性」と言えば難しいが、要するに「他とは違っている」ということである。
海岸にある多くの似た石から「ひすい」を探すには、他の石英などとの「違い」を見抜く目が絶対必要だ。
これを身に着けるには、とにかく海岸に通って経験を積むしか道はない。

まず、本を読んだり、博物館へ行ったりして、本物のひすいを見ることが必須であろう。
しかしながら、ただ、それだけでひすいを拾えるようにはならない。
沢山の「バリエーション」を知らなければならない。
そのバリエーションのデータベースが頭の中に入っていないと、目の前にひすいが転がっていてもわからないのだ。
そのためには多くの経験から「ひすい」を推論しなければならない。
とても論理的な作業である。「野生の思考」の実践、と言っても良い。

ひすいを拾わない人にとってはつまらない趣味だと映るかもしれない。しかし大自然を相手にすることである。なかなか一筋縄ではいかない。
非常に奥が深く、哲学書を読むよりもずっと難しい。
ただ単に歩いているだけでもだめだ。
もっと新しい視点が必要になる。そうすれば、見えてくるものが全く違うのだ。
そのためにはいろいろな考え方を知る必要がある。

ひすい拾いは「美学」に通じる。
ほんとうに自分が美しいと思えるものを探す行いである。
これに何か法則を探さなければ、本当に美しい石には出会えない。
何を美しいと思えるか、がすべてなのである。

ひすい拾いは、自分の考え方、思想に影響される。
心が混乱していると、良い石に出会えないばかりか、思わぬアクシデントに遭うこともある。

そして最後に「ひすい」とは何か、ひすいという「記号」がわかるようになるのだと思う。
それは大自然からのメッセージである。