2021年1月17日日曜日

共通テストの現代文にフーコーが出る時代


大学共通テストが昨日から始まっているが、新聞に載っていた問題文を見て驚きを感じた。
国語の現代文は、なんとミシェル・フーコーの「知の考古学」的手法を使って、日本の妖怪を解釈しようという文章。

私は最近よく読んでいる「構造主義」ですら理解が難しいと思っている。
ミシェル・フーコーはそれを批判した(実際には構造主義の方法を発展させた)「ポスト構造主義」と言われる人の代表格なのである。私に理解できるはずがない。

ずいぶん昔にフーコーの『性の歴史』にチャレンジしたことがあったのだが、あまりの難解さにずっと読まないまま、そのうちゴミ箱行きになってしまった苦い思い出がある。

フーコーの解説書は読んだが、『監獄の誕生』のパノプティコンの説明(囚人を効率よく監視できる円形状の監獄。ベンサムが設計)が、囚人を効率よく再生産するシステムだ、というくだりだけはよく覚えている。
監獄は囚人を更生させるシステムではなく、かえって囚人を作る(なぜなら身体を拘束し、社会に適応できなくさせるから)システムであり、それが権力を維持させる仕組みだというのだ。
あまりにぶっ飛んだ考え方なので、よく理解できず、私は賛同できなかった。

この論理からすれば、共通テスト自体、大学組織(≒学歴社会≒日本独自の知識システム)なる実体のない権力を維持するためのシステムにすぎないことになるのだが。それを「効率よく」監視するために、マークシート式の全国一律テストが実施されているにすぎないのではないか。学校教育が、塾産業を再生産し、効率よく点数をとる技術を教えるシステムと化している現実をみると、あながちフーコーの指摘も間違ってはいないような気もする。
問題を解決する、という学問の目的がいつの間にか新しい問題を再生産するシステムになっているのである。
それもだんだん複雑化させて、より技術的難易度の高い問題を再生産する(これが当たっているかどうかは、わからない)。

ともかく、この中で「妖怪」が現代においては「記号」から「表象」化されて、サブカルチャーやゲームの中に使われ、現実的存在感を奪われ、より仮想化した、そして妖怪の本来もっていた機能が逆に内面化されて人間心理の中に不安という形で戻ってくるようになった、と読めるような記述があった。

昔は妖怪は恐怖の対象であり、まさに現実に存在していた。それは自然界のメッセージを持った「記号」であった。
しかしそれが本草学によるタクソノミー、さらに科学の解析で、人間の心理状態に還元され、精神病理の一形態にされ、人間の管理下において「科学的記号化」「表象化」される。それと同時に妖怪はエンターテインメント化され、ゲームに登場するキャラクターにされた。
(フーコーは拒否するかもしれないが、言語学的解釈をすれば、記号の指し示す概念が変わってしまっただけなのであるが(歴史的な流れは、たぶん関係ないと思う))。

妖怪そのものは、人間の心に存在する。おそらく、これからもずっと存在する。ただ、それを表示する記号が別のものに変わってしまったのである。日本語というシステムは変わらないから、それはその中でまた別の記号に置き換わるのである。
異常心理という精神病理学的な概念にはどこか、それが「科学(医学)による制御下にある」という含意がある。しかし、それはあくまでも「妖怪」なのである。それが本当に科学で制御できるだろうか?
事実、妖怪はみごとに人間のたくらみを逃れているように見える。

最近は新型コロナウイルスに対する恐れが、「アマビエ」を記憶のかなたから呼び出している。これは疫病を退散させる力を持っているといわれる。半魚人のような実に恐ろしい姿をしているではないか。なんだか強そうである。これを過去の書庫から呼び出したのは、我々の集団的合意である。過去にもそうであった、だから今でもそうだろう、という合意である。

しかし実際に、本当に怖いのは、科学で制御できない新型コロナウイルスの方なのである。
これが昔の疫病と同じ性質を持ったものなのかは、誰にもわかっていない。