薬師平より黒部五郎岳 |
YAMAPを退会して3日。すこし落ち着いてきた。
以前ヤマレコをやめた時も、同じようにしばらくは寂しかったが、すぐに慣れた。
SNSには依存性があるので、ちょうどタバコをやめた時のような感覚に襲われる。
人間の本能的な部分に影響するものは、とても厄介だ。
登山系SNSを利用すると、知らず知らずのうちにゲームに巻き込まれてしまう。
以前ヤマレコをやっていてだいたい予想は付くから、今度は大丈夫、と思っていたがやはり巻き込まれそうになってしまった自分が情けない。
山は競争して登るものではない。
(ましてや今はコロナ禍の真っ只中。登山競争なんて論外の環境である)
この辺りで、なぜ自分は山に登るのか、考え直してみようと思った。
1、身体的に健康になるため
そもそも、私が山に登るようになったきっかけは、腰痛に対する治療効果を期待したからであった。
登山に使う筋肉は、体幹を支えるので、これを鍛えることによって腰痛が楽になったことは間違いない。
また、ハードな運動なので多少の重労働に耐えられるようになった。
躓いて転ぶことが明らかに少なくなった。
これらの効果があったので、登山を続けることが出来たのだと思う。
一方、山は危険な場所である。ときどき「ひやっ」とするようなミスで、けがをすることがあった。
けがをするときはたいてい心が落ち着いていなかったり、疲れていたり、睡眠不足であった時の方が多かった。
ただ、どれだけコンディションが良くても、けがをするときはした。
原因が分からないのに、けがをすることがあるのが「山」という場所なのである。
2、自然に親しむため
日常とは違った、圧倒的に美しい光景を体感し、人間の住む世界には存在しない動植物を観察できるのも登山の魅力であった。
人間社会の、単調で機械的な環境を離れ、それ以外の世界があることを実感できた。
半面、「山」はその厳しい自然環境によって、人間の侵入を拒む場所でもあると思った。
ときどき「わたしがこんな場所にいても良いのだろうか?」という感覚になった。
多くの登山者が道を踏み荒らして深くえぐられた登山道もみた。
ごみが放置されていたりするのも目にとまった。
いったん破壊されると元にもどらない自然を、人間が壊しているのが感じられ、悲しくなった。
3、精神を正常にするため
日常の生活ではどうしても「競争」に明け暮れる。それは山の動植物だってある意味、おなじだと言えるだろう。
しかし、人間社会という場所には「人間」以外の動植物はほとんどいない。自然の社会では違う種の動植物が環境を住み分け、お互いに共存しあっているように見えた。
人間社会というものは、極めて単調な、機械的な社会である。
その中に居れば「人間同士のあつれき・衝突」が起こるのも無理はない。
なかなか人間にとって共存するということは難しいことらしい。
このため人間社会にばかりいると、非常に精神が疲れる。
それ以外の場所を見ることは、精神の癒しになる。
しかし「登山系SNS」が出来たことによって、登山でも人間同士が競争するようになった。
登山をスポーツの一種だと思うことは自由だろう。
しかし一方で山を神・仏の住まう神聖な場所である、という登山者の意識が無くなってきているように思う。
最近そのことが、とてもつらく感じられるようになってきた。
人間の都合によって神仏の御座が「競争の場」と化してしまっていることに、大きな不快感を感じている。
これも「西洋的なアルピニズム式登山」の影響なのだろうか?
日本人がもともともっていた、「山」とのきずなが、失われつつあるように思っている。