2020年10月21日水曜日

俳句と親不知海岸

 


俳句の復興者である松尾芭蕉は河合曽良を伴い、元禄2年7月12日(1689年8月27日)に能生を発って市振に到着した。
『曽良旅日記』によれば、この日糸魚川の「早川」を芭蕉が渡る時、躓いて川に落ち、衣服を濡らした、という。申の中の刻(16時ごろ)市振に到着したというから、約30km以上もの道のりを途中休憩しながら、しかも途中で衣服を干したのち、歩いたことになる。
その時、芭蕉は暑気で参っていたというから、この記録はにわかには信じられない。
相当高齢で、しかも体調不良の芭蕉が、険しい天険海岸をこのコースタイムで越えられたであろうか?
『曽良旅日記』は後世発見された文献であり、本当に『おくのほそ道』の随行録であるかどうか、もう一度検討してみることが必要かもしれない。
もっとも、当時の海岸線は今よりもずっと広く、波の荒い時期でなければ、意外と行けたらしいけれども。

ともかく、芭蕉がこの近辺で詠んだ有名な俳句が2首ある。

あら海や佐渡に橫たふ天河

一家に遊女も寢たり萩と月

いずれも、この地にぴったりな俳句で、私は大好きなのである。
一首目は、日本海の荒波の中に、初秋の天の川が横たわっている風景句。

二首目は、『おくのほそ道』では、宿屋に同宿した遊女の話を横で聞き、哀れになって詠んだ句とされているが、私見によればこの句は、能の謡曲『山姥』を踏まえたものであろう、と考えている。
この地には謡曲山姥の舞台となった「白鳥山(あげろ山)」がある。謡曲『山姥』は、山姥踊り(曲舞い)の名手である都の遊女「百魔」が、善光寺参詣の折、山中で山姥に遭遇した話である。
曲中に書かれる地名は、この謡曲がこの地を舞台にして書かれていることを明確に示している。

芭蕉ほどの文化人がこの地を訪れて、謡曲『山姥』に言及しないのは不自然である。
ただし遊女とのやりとりは謡曲『江口』を下敷きにして書かれている、ともいわれる。
しかし、この場所を実際に訪れたなら、やはり『山姥』に言及するのが自然だと思われる。
芭蕉の記憶が混乱していたのかもしれない。

私はこの「遊女」を、都の遊女「百魔」の事だと思っている。
この句は、昔この場所を越えていった遊女に思いをはせ、詠んだ句ではないか?
実際、山姥と百魔が山中で舞うのは、夜、月が出ている時であり、最後の「月」の意味も『山姥』に由来するとすれば、はっきりするのである。