インドのヒンドゥー教で最も重要な神様は、ブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァ(トリムルティ(神の3要素))である。
3柱の神はそれぞれ「本体」「維持」「破壊」の神である。
古くはリグ・ヴェーダの中に記されていた多くの神々を、後世3柱にまとめたのである。
この中で一番位の高い神様はブラフマー神であるが、普通直接崇拝されることは無い。
ヴェーダの奥義書とされるウパニシャッドの哲学の中で、しばしば議論をされるが、
ブラフマー神は「人間には一切認識されない」。認識されないが、ブラフマー神は人間に認識そのものを可能にさせている超越的な存在である。存在と存在しないものを超えているので、どのように表現しようと思ってもできないし、どうやっても知ることはできない。
このため、崇拝の対象にもなりえないのである。
このブラフマー神が、目に見える形を取ったのが、ヴィシュヌとシヴァである。
これらの神々は、本当は一体なのである。
ヴィシュヌ神。世界の維持をつかさどる。 |
ブラフマー神。宇宙そのものとされているが、人間の認識には決して上らない存在。 |
シヴァ神。世界の破壊をつかさどる神。 |
世界はこれらの神々によって、創造され、維持され、破壊されることを繰り返している、というのがインドの世界観だ。
ヒンドゥー教は後世いろいろな歴史を経て変容し、現在のインド社会の根底に息づいているのだが、宇宙の法則(リタ(天則)という)によって、すべてが決まっているという解釈をすることが多い。
厳しいカースト制度がいまだに根強いのも、ヒンドゥー教でそのようになっているからである。
これに対して仏教は批判的な立場を取ったので、インドでは存続できなかった。
しかしながら、仏教の根底には、これらのインドの世界観の名残が、色濃く残っている。
ヴェーダを読むと、昔のインド人は大自然の力を神になぞらえて崇拝していたことが分かる。
風や雨、雷、太陽、月、山、川などは、みんな神であった。空間や、感覚器官、や心ですら、神であった。
ヴェーダの意味を突き詰めて考えるならば、それら大自然の力を、私たち人間は超えることが決してできない、ということを言っている。したがって、それらの前に私たちはただひれ伏すしかない。
人間がそれらの力を手に入れることはできないし、どんな祈りも神々は聞き入れてくれない。
後世、神々の力は祈りによって人間が操作できるのだ、という考え方が生まれた。
それからブラフミン(バラモン)という神官階級が生まれ、神々に祈りを届ける存在になった。
ヴェーダを否定的にとらえる後世のウパニシャッド哲学には、それらに対する疑問が多くみられる。
私はそれが正しいと思う。
人間の力が、大自然に打ち勝てないことは、今も昔も変わらない。
大自然を支配した、思い通りに出来た、という人間の思い上がりが、いろいろな災害を招いている。
大自然のバランスを崩せば、それに対するしっぺ返しは当然来る。