インドの古典「ウパニシャッド」は、ちょうど仏教がインドに興ったころに出来たとされている文献である。
紀元前600年から500年ごろであるから、今から2500年以上も前の話である。
この中の一つ「カタ・ウパニシャッド」は、死神との対話を描いた物語である。
あらすじを述べると、
坊さんに布施が運ばれていく様子を見ていたその家の息子が疑問を持つ。
「その布施は誰に与えられるのか?」とその家の家長である父に何度もしつこく尋ねたため、父は怒り、「おまえを死神に布施するのだ」と言う。
そのため息子は死んでしまい、死の国へ旅立つことになった。
その途中、息子は死んだ人が後から後からやってくるのを見る。
見よ、過去の人々と同じように、反対(=未来)の方向を見よ、あとから来る人々もそのようだ。人間は穀物のように成熟し、穀物のように再び生まれてくる。
死神は帰ってきて、その失礼を詫び、代わりにどんな願いでも3つだけかなえてやろう、という。
息子は、まず父の怒りを解いてくれるように願う。
そして次に、天国に導いてくれるお祭りのやり方を尋ねる。
これら2つに死神は快く応じる。
しかし3番目に息子が
死んでいった人について、疑問があります。-「彼は(死後の世界に)存在している」という人々もあり、他方「彼は(どこにも)存在しない」という人々もあるのです。このことについて、私は知りたい。これが3番目の願いです。このように問われた死神は、これについては古来神々ですら疑問をもった難問であり、教えたくない、と言う。その代わり、どんな世間の享楽でも与えよう、と言う。
息子はそのような享楽は無常であって、価値のないものだ、と言い、死後の世界のことを知ることのほうが、ずっと価値があるのだ、と死神に詰め寄る。
死神は仕方なく、死後の世界について語り始める。
その内容は深遠そのものであるが、欲望のある者は輪廻し、この世の欲望に惑わされない者は、人が生まれもせず、死にもしないような世界を知る、というようなことが述べられている。
それは体験するしかなく、言語表現の領域を超えた世界である、と。
これは仏教の教えの中にも繰り返し現れるテーマである。
生き、悩み、苦しみ、最後には死んでいく、この世界の果てはどこにあるのか?
その原因は何か?
そしてそれを免れることはできるのか?
物欲や金銭欲などの欲望が満たされたとしても、この繰り返しをずっと続けるだけである。
永遠に満たされない欲望を追い続けることが、輪廻なのである。
これを静めるには、欲を起こしている原因が「追い続けることそのもの」であることを知るしかない。
何かが手に入れば、さらに良いものが欲しくなるだろう。
その繰り返しをやめない限り、決して精神が満足するということは、ないということだ。
生きている限りは、いやがおうにでも、生きなければならない存在が私たちだ。
ただ、そこでふと、求めているものの本質に目をやることによって、しばしの休憩を得られることは、あるのかもしれない。
死神の教えは、そのことを気づかせてくれる貴重な教えである。