2020年4月28日火曜日

高い圧力がかかった石は面白い

断層のある石
糸魚川は沈み込み帯であり、北米プレートがユーラシアプレートに潜り込む地点だ。
これは静岡までの「糸静構造線」という断層を作っている。
この近辺で地震が多いのは、断層が近いからである。

この環境で、地下の高い圧力を受けて変性した岩は、その痕跡を示していることがある。
上の、ネフライトかひすいのような石は、断層を持っている。
こんな硬い石が、数センチもずれている。白い脈がずれているので、そうとわかる。
普通なら、この境界でパキンと割れそうなものであるが、完全にくっ付いている。
相当高い圧力がかかっていたことが分かる。

ネフライトが出来るには5000気圧と600度の熱が必要だそうである。
ひすいは10000気圧と少し低い300-400度の熱で出来る。

きっとあの大きな北アルプスに押しつぶされて出来上がった石なのであろう。

その表情はとても面白い。

人間も、高い圧力がかかっていた人間のほうが、魅力がある。

2020年4月26日日曜日

ひすいの上品さは、青い要素と緻密さ

目視では分からなかった、ひすい輝石を含んだ岩石。
石英にしか見えなかった石だが、比重を計ったり、細かく観察した結果、今では唯一ひすい輝石岩だと確信できる石になっている。

よく見てみれば、とても上品な色合いをしている。
なんでもじっくり観察してみないと、わからないことがあるんだな(今は家の中にしか居られないから出来ることでもある)。

基本色は緑、それも薄い緑なのだが、全体に薄い青色の要素が入っている。
これが全体に爽やかで上品な感じを与えているのだ。
小さい石だが、他の石とは違う存在感がある。
ひすい輝石の青色は、チタンと鉄イオンによるという。ラベンダー色の石の発色原因はチタンだけだが、これに鉄の緑色の要素が加わると、青色になるのだ。
だから、緑と青は混じることがほとんどだ。まれに緑の見られないものがあるが、そんな石は拾ったことがない。
とてもレアだという。宝石を扱う業者は、昔、山から採掘された石を使っているらしい。

あと、この石はひすい輝石の特徴である「針状に見える結晶」を持っている。とても緻密な石質である。
他の石と比べて、特別きれいだとは思わないが、ひすい輝石の特徴がよく出ている石だ。

微妙に青みがかっている。海岸に転がっている時には、石英にしか見えない。同じような石が何万個とある。

ごく薄い緑色に透過する。写真では分からないが、独特の透過色である。

細かく観察すると、とても弱いが、青色が入っていることが分かる。これがこの石の全体に上品さを与えている。

2020年4月25日土曜日

透き通った石がひすいだとは限らない

こんな石でも、ひすいではないことがある
今日は、雲一つない晴天だ。しかし、不要不急の外出は出来ない。
緊急事態宣言が出てから2週間以上経つ。
昨日も有名な女優さんが亡くなったりしているし、一向に感染者数が減る兆候は見えていない。

以前、拾ってきた石を眺めるのが日課になっている。また海岸に出られる日は、いつ来るのだろうか?
これ以上の感染拡大を防ぐため、有名な観光地の閉鎖、駐車場の使用禁止、ロープウエイの運休、観光道路の封鎖などが進んでいる。そのうち主要国道の県境封鎖などもあり得る。
ゴールデンウイークは、地方での観光はあきらめていただくより他はないだろう。
かかると命の危険があるウイルスである。自分の命や他人の命を守るため、終息するまでは危険な行動は慎む必要がある。

よく石を眺めてみると、ひすいだと思って拾ってきた石のほとんどが、光を通す。
実はひすいは必ずしも光をきれいに通すことはないのだ。

なんというか、見る人が見れば、わかる特徴がある。
石英や曹長岩、蛇紋岩やネフライトのほうが、きれいに光を通す傾向がある。
それに対しひすいは、光を通しても、独特の上品さがある。光を通さなくても、上品な質感がある。
「上品さ」を言葉で表現することは難しい。写真に写しても、その上品さを完全に表現することはできない。
ひすいは本当に難しい石だと思う。
インターネット上の写真なんかで判別することは、不可能だと思う。

上の写真の石は、ひすいに間違いないと確信していたものだ。
しかし比重を計ってみると、2.84。何度計りなおしても、この値は変わらなかった。
残念ながら、ひすいであるとは判断できない。前にも書いたように、良くて曹長岩であろうと思われる。

多くの輝石は比重が3以上である。これは科学的な事実なので、否定できない。

今は家の中で待機なので、ゆっくりと石を眺めたり、検討したりできる。
意外と、いままでそうだと思い込んでいた石が、そうでなかったりすることがある。

2020年4月22日水曜日

人類は今後どうなるのか

人類誕生 未来編


外に出られないので、BS1でやっていた『人類誕生 未来編』を少し見ていた。
人類の系統樹を見ると、およそ200万年前に、ホモ・ハビリスとパラントロプスに大きく枝分かれする。
この時に、一方が絶滅したのは「道具」を使わなかったからだ。
またホモ・エレクトスは「心」を持ったから生き残ったとか、ホモ・サピエンス(現生人類)は氷期の到来で一時1万ぐらいまで個体数を減らしたが、南アフリカの先端で「ムール貝」を食って生き延びた、とか学校では習わないレベルの知識が得られたのでとても良かった。
私はムール貝が大好物であるが、その理由がなんとなく理解できた。

過去の人類はたくさんの種類がいたのに、今はホモ・サピエンス属一種である。
もちろん、滅びてしまった人類の遺伝子を一部受け継いではいるのだが。

人類が滅びるのには多くの要因がある、と思う。
ノーベル生化学賞をもらった山中伸弥教授によると、人類は遺伝子の意図的な操作によって、滅びるかもしれない、ということだ。

今、世界中を混乱に陥れている新型ウイルスが、中国の研究施設から漏れたのではないかという疑惑を持たれている。
武漢病毒研究所は、危険なレベルのウイルスを扱う施設であり、ここで研究の為に飼われていたコウモリのウイルスが外部に流出したのではないか、というのだ。
これはアメリカも真相を全力で究明すると言っているから、あながちデマでもない。
中国は火消しに躍起になっているが、その慌てようから、かえって疑惑を大きくしているように思う。

仮に遺伝子操作によって作られたものであったとしても、それがこれだけ広範囲に広まって大きな被害を出していることが問題である。だとすれば、この災いは、人類が自ら招いた災いである。
他にも、人類は自然環境を破壊し、地球の気象まで変えてしまっている。
これも、人類が自ら招いた災いである。

人類は「科学」という、人間に都合のいい技術を作り出し、他の生物や、過去の化石エネルギーを栄養源として、これまでにないほど数が増えている。

現生人類にとって「幸せである」ということは、金銭的に豊かであり、健康で、飢えに苦しむことなく、知識が豊かで、滅びずに子孫繁栄し数を増やしていく、ということである。
それが「善」である、と何の疑いもなく信じ込んできた。
今の世界は、この価値観の力があまりにも強すぎるのである。

人類は、存続すべきである、あなたも人類だからそうしなければならない、という同語反復が繰り返されている。それに反する考え方をすると、とたんに批判を浴びてしまう。

おそらく人類はこの危機を乗り越えるであろう、と思う。
しかし、仮に乗り越えても、人類は相変わらず数を増やし、自然を破壊するという問題は、解決できない。
今回のウイルスが、科学自身の力の持つ破壊力の一部であったとしたら、その力はどこからやってきたのだろうか。

科学を生み出した人類は、実は大自然の生み出したものでもある。
生み出した母体を破壊してしまえば、生み出された存在も無くなってしまうだろう。

2020年4月21日火曜日

太田胃酸とひすい




太田胃散とひすい。一体何の関係があるのか、と訝られるかもしれないが、実は成分が似ている。
結論から言えば、太田胃散に含まれる「合成ケイ酸アルミニウム」とひすい輝石の分子構造は、ほんの僅かしか違わない。

ケイ酸アルミニウムは
ひすい輝石はNaAlSi2O6

何とケイ酸アルミニウムにナトリウム分子一個を加え、アルミ一個を減らし、ケイ素1個、酸素1個を加えると、ひすいになるのだ!

ケイ酸アルミニウムは藍晶石、珪線石などの成分である。
胃酸を抑える作用があるので、胃薬に添加されることが多い。

これがひすい輝石と、ほとんど変わらない分子構造を持っているなんて、かなり意外だったので、書いてみた。
まあ、もともとはそれほどありふれた物質だということだ。

良く知られているように、ダイヤモンドは炭素の結晶であり、サファイヤは酸化アルミニウムの結晶である。
宝石なんていうものは、もともと、それほど御大層なものではないのだ。

2020年4月20日月曜日

ひすいは中国で人気だったんだよな

比重を計ったら3.3ぐらいあった緑のひすい

コロナの影響か、オークションサイトなどを見てみると、軒並み翡翠の価格が落ちている。
これは推測だが、もしかしたらオークションに出品されていた石がかなり中国のお金持ちの手元に渡って行ったのかもしれない。
結構な値段で出品されていた石が、SOLD OUTになっている場合が多かったし。
いくらなんでも日本人がそんな値段で買わないだろう、とは思っていた。
今は海外向けの交通はほとんど止まっているだろうし、運輸も減っているだろうし、第一、中国本土がたいへんな状況になっているだろう。
日本もこれから大変な時期に差し掛かるだろうが。

中国人の翡翠好きは、前にも書いたように清の時代からだ。日本の翡翠文化は縄文時代から奈良時代ぐらいまでは続いていたが、仏教の伝来とともにぷっつりと途絶えていて、長い間忘れ去られていたのであった。しかし、中国人の「玉(ぎょく)」文化は、ずっと途絶えることなく何千年もの間続いてきているのである。
昭和時代になって日本で再発見されたのも、中国で翡翠が宝石として扱われていたからだろう。

中国という国は、一言でいえば「カオス」な国だ。
英語のChaosは、漢語の「混沌(こんとん)」という言葉で訳されることも多い。
Chaosはギリシャ語で「深い淵」を表す。中がどうなっているのかわからない、無秩序状態のことを言う。
「混沌」というのは中国古典の『荘子』が語源である。高校の時の漢文の教科書に載っているぐらいだから、比較的そのエピソードは知られているだろう。

目も鼻も無い”混沌”という名の王に恩を受けていた王がいた。彼は恩に報いるために、混沌に世界を見たり聞いたりさせてあげようと思って、人間と同じ7つの穴を開けてやると、混沌は死んでしまった、という話だ。
この話は、人間は無為自然で無分別の状態が一番良いという戒めとして使われている。
下手に知識を増やしたり、学問などをすると、結局は身を亡ぼすことになるだろう、ということである。

今でも中国にはそういう考え方が残っているのか、とにかく分かりにくい国である。
何かをはっきりさせる、ということを嫌っているようにも見える。

中国人に翡翠のような、はっきり判別できない石が好まれたのは、中国人の「混沌とした」精神性によくマッチしたからもしれない、と思える。
翡翠はとにかく定義があいまいで、はっきりこれが翡翠だ!とは言えないことが、知れば知るほどわかってきた。

第一、同じ石に、「ひすい」「ヒスイ」「翡翠」という、同音異義語が3つもある。
それぞれ、意味するところが違うのである。
これだけで十分に混乱するが、さらに石自体が様々な岩石で構成されているのである!

もはや何が何だか、さっぱり分からない!
まさに「深い淵」である。

翡翠と付き合うには、「何が翡翠か」と考えてはいけないのである。
恐ろしく長い歴史と、多様な解釈と、複雑な美意識の”混沌”とした迷路に迷い込むことになる。

2020年4月19日日曜日

ひすい鑑別検定 (鑑別なんて不可能だね)

ひすいの鑑定がいかに難しいか、お示ししましょう。(正確性については保証できません!FMMで見てもらったわけではないので)
かなり上級向けですが、だいたい比重を考慮した問題です。

問題1:右と左のうち、どれがひすいに近いでしょう?

問題2:右と左の石は、見た目は同じであるが全く違う石である。どちらがひすいを含んだ岩石でしょう?

問題3:これはひすいでしょうか?
問題1のヒント:左の石の比重は2.9、左の石は3.1です。
問題2のヒント:微妙な色の違い、形の違いが分からないと、まったく同じ石にしか見えません。
問題3のヒント:微細な結晶があり、透明度が非常に良いです。しかし比重は・・・

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問題1の答え:黒ひすいの比重は2.9ぐらいが多い。一方、ロディン岩の比重は3.1。したがって左の黒い石がひすいに近いと判断します。ちなみに黒いひすいはオンファス輝石であり、厳密にはひすい輝石とは言えない。グラファイトが混じるひすい輝石は、灰色に見えることが多いです。この場合も炭素の比重は2.26ほどなので、やや軽くなる。

問題2の答え:左側の石がひすいを含んだ岩石。角があり、微妙な緑色をしており、比重が3.2あるのでひすいを含んでいると判断できます。ちなみに石英と思われる右の石は2.5であり、光を通すと茶色です。
目視だけでは、まったく同じにしか見えないと思います。

問題3の答え:ひすいであるとは言い切れない。理由は比重が足りないことです。これほど透明度が高ければ、比重は3以上なければならないはずですが、これは2.8ぐらいです。ただ、コスモクロア輝石の比重は2.64-3.15と、ひすいと比べると少し低い。
緑の発色要因がコスモクロアによるとすれば、これはひすいというよりは、コスモクロア輝石に分類されると思います。しかし、コスモクロア輝石は鮮やかな緑のペイント状の脈を成すことが多く、母岩は黒い。白い石にうっすらと入り込むことがあるのだろうか?
だとすれば、石英か曹長岩に分類されることになります。
だが、この石にはひすいの結晶はしっかりあるので、そうだとも言い切れない。しかも、透過色は非常に美しいグリーンです。この石には石英の特徴である大きな結晶は見られない。
したがって、おそらくひすいになり損ないの曹長岩であろう、と判断できます。曹長岩の比重はだいたい2.6。推測でしかありませんが、一部にはひすいを含んでいるのでしょう。
曹長岩とひすいの分子構造は、ほんの僅かしか違わず、判別はとても難しいです。曹長岩の結晶は大きいと思っていましたが、小さいのもあるのかな?

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結局、比重から判断する限り、ひすい輝石岩の可能性が一番高い、と言えるのが、真ん中の写真の左側の三角形の石だけだ、ということになります。

どうです?かなり難しいでしょう?

以前から書いているように、ひすいの鑑定は目視ではほぼ不可能です。
どうしても本物を知りたければ、フォッサマグナミュージアムで見てもらうか、宝石鑑定に出すかするしかありません。

私はそこまで本物にはこだわらないスタンスで石拾いを楽しんでいるので、こんな検定には意味がありませんが、自分の中で結論を出しておきたいので、あえて書いてみました。

2020年4月18日土曜日

合成エメラルド

合成エメラルドのクラスター

ダイヤモンド(炭素、C)、サファイヤ、ルビー(酸化アルミニウム、Al2O3)、エメラルド(Be3Al2Si6O18)などは合成石がある。
上のリンクのエメラルドクラスター(クラスターとは塊の意味)は、なかなか素晴らしい出来で、思わず欲しいなあと思ってしまった(お手頃な値段なので、どうかな?)。
天然物はいろいろな不純物が混じるので、純粋にきれいな石を求めるならば、やはり合成石(ガラスなどに色を付けた偽物とは意味が違います。合成石は、天然の石の成分、生成過程を真似て作られるので、コストがかかっているし、美しさも全く違います)の方が良いと思う。
しかもこれらの宝石は、混じりけの無いほうが価値が高いと思うので。

一方の糸魚川翡翠は、不純物のない石は存在しない。
前にも書いたような、ミャンマー産の氷種翡翠などは、限りなく不純物が少ないと思うが、糸魚川にはこのような石は全くないし、発見もされていない。昔は純粋なものもあったらしいが、今は全部拾われてしまっており、ない。
なので糸魚川の翡翠は宝石としてではなく、鑑賞石として楽しむことになる。

鑑賞石としてであれば、石の質にはあまり大きな意味は無い。
極端な話、翡翠である必要すらない。石英であろうが、泥岩であろうが、どうだっていいのだ。

むしろ、形や色、風合いというか、そういうものを基準に選べばよいと思う。
糸魚川の海岸は、石英質の石がたくさんあるので、全体に白っぽく見える。
その中から、自分の持っている盆栽などに合いそうな石を拾ってきて、飾って鑑賞すればよいのだ。
また、木の台を作って載せている人もいる。

ただし、盆栽に載せる場合、よく塩分を落としておかないと、塩害が発生する場合がある。
なにせ長時間、海の中にあったり、潮風に吹かれているものなので。
何日か真水にさらしたほうが影響が出にくい。

鑑賞石にする場合、削ったり割ったり磨いたりすると、せっかくの魅力を台無しにするので、やめておいたほうが良い。自然の造形を楽しむことにこそ意味があるので。

これはロディン岩だろうが、どっしりとした石で、風景が面白い。盆栽に載せると映えるだろうな
糸魚川の石に宝石を求めることはやめておいたほうが無難だ。
石の質や種類を気にせず、面白い形や色に重点を置くと、楽しさがぐんとアップする。

2020年4月17日金曜日

翡翠の本を読む

新型コロナウイルスが蔓延しており、全国に緊急事態宣言が出されてしまった。
これではどこにも行けないので、せめて写真だけでも見ようと思って、『翡翠』(飯田孝一、2017、亥辰社)という本を注文して読んでみた。
表紙には昔、青海川で採れたという極上質の緑翡翠。
自分の拾ってきた翡翠やネフライトと一緒に撮影してみた。

自分の拾ってきた石と記念撮影(^^; 写真のような石が拾えたらいいのになあ。
まず、広義の翡翠文化は中国で始まった。ただし、そのころは「玉(ぎょく)」と呼ばれていた。
これはネフライトであり、硬玉ひすいとは全く違う石である。
時代とともに、真っ白な玉が好まれるようになり、「白玉」「羊脂玉」などの、脂肪のような、とろんとした味わいの石が特に好まれるようになった。

最初はネフライトを玉としていた中国は、ずっと後になって(17世紀の清の時代)ミャンマーで硬玉が発見されるとその魅力に取りつかれ、だんだん硬玉に移行していった。
清の西太后は特に硬玉を愛し、財政を傾けるほどのめりこんだ。
台湾の故宮博物館にある翡翠のコレクションは、量、質とともに世界で唯一のものである。

翡翠を宝石として扱うのは、中国の文化の影響を受けている地域だけである。
ヨーロッパなどでは、いろいろな石がまじりあって翡翠を構成している、ということもあって、宝石とはみなされなかった。そのため、ダイヤモンド、サファイヤ、ルビーなどの方が圧倒的に好まれる。
東洋の宝石としての世界的地位を確立したのは、中国人が翡翠を好んだからであるといえる。

一方、日本には縄文時代からの最古の硬玉文化が存在した。
紀元前3500年ごろに日本の翡翠文化が生まれたとされているから、世界で一番古い。
中国人が翡翠を見出したのは、それから比べるとごく最近の事に過ぎない。
翡翠はそのために「日本の国石」に選定されている。

縄文国家(越の国)の祭祀集団によって、この石はお祭りなどの際に身に着けられる神秘の石とされていた。
越の国はこの石を海外への贈り物としていたらしく、日本国内だけでなく、韓国でもこの石が発見されている。これらの石は糸魚川産であることが成分分析で証明されている。

翡翠の混じった岩が採取できる宮崎海岸。最近では資源が枯渇してしまって、良いものは全く取れない。

日本の翡翠文化はその後ある時期を境に途絶えてしまった。
昭和時代になって、明星山の下の小滝川の河原で翡翠が再発見される。
少し遅れて青海川の上流の黒姫山の河原で発見される。
両者とも国の天然記念物に指定される。この周辺での石の採取はご法度である。

非常に長い歴史を持つ翡翠文化。
この少し透明な、硬質ガラスのような石は、皇室の宝物にもなっている。

現在でもこの石に魅了される人々が後を絶たないのは、大自然の色である「緑」が、私たちの心を揺さぶるからであろう。
緑は生命の色である。
これから新緑の季節ともなると、山は一面の緑に覆われる。

人類が誕生してから、何百万年もの間、この光景は繰り返されてきた。
そう簡単に滅亡しないと思うが、いかがなものだろうか?

緑の石を眺めるたびに、勇気づけられている。
きっと人類は、コロナなんかに負けない、と。

2020年4月14日火曜日

備蓄の時代になる?

コロナ後は、ミニマリストの世界から備蓄の世界になる?


新型コロナの蔓延は、世界のサプライチェーンをずたずたにしつつある。
いままで「必要なものを最小限」購入し「備蓄はしない」という方向に進んでいた社会の弱さを露呈した形にもなっている。

今は欲しい商品が手に入らない。マスクや消毒薬が不足している。
一方で、それらを備蓄していた人たちは、不安を感じることはない。

確かに、登山するときは、山には何もないので、必要なものをもっていかないと、命にかかわったりする。
インターネットも電波が届かず、使えない場合も多い。
モノが無い、ということがどのようなことなのかをリアルに体験するには、登山が一番いい。

なければ自分の力でそれらを手に入れるか、工夫して代わりものをつくるかするしかない。

仮にいまの状況が長い間続くとすれば、そういう状態になるシナリオも、まったく無いとは言い切れない。

自律分散型社会の加速


自律分散型組織(Decentralized Autonomous Organization)とは、簡単に言えば、「契約の手続きを自動化してしまおう」というシステムである。

例えば、今までの「働いて、会社から給料をもらう」という社会の仕組みを自動化し、「働いて、個人から報酬をもらう」という仕組みにする、ということだ。
これによって、中間で契約を管理する会社組織は不要になる。

なぜこれが可能になるのか、と言えば「契約の履行が自動化できる」仕組みがあるからだ。
この仕組みを担うのが「ブロックチェーン」という分散型のデータベースである。
これは簡単に言えば多量のデータを、安全に確実に保存する仕組みである。
理論上、データの書き換えや損失が無い(現状ではまだそこまでは行っていないが、将来はそうなっていくであろう)

自動販売機がよく例にあげられる。お金や電子マネーを入れれば自動的に商品が手に入る。
これは人間ではなく、コンピュータのプログラムが売買契約を履行しているから、できることである。

「あらゆる社会契約を、自動販売機にしてしまおう」というのが、自律分散型組織の目的だ。
こうすることにより、会社からモノを買うというのではなくて、個人と個人が、あるいは個人と商品を製造している業者が直接取引できるようになる。つまり、仲介する会社が不要になる、という考え方だ。

今はまだまだ中間で売買を仲介している企業は多いが、そのうちになくなっていくかもしれない。
実際に社会はこの方向に向かって急速に変化しているように感じられる。

今回の新型コロナウイルスの蔓延で、社会がさらにこの方向へ進むことは確実だと思われる。

2020年4月13日月曜日

風の神

ルドラ神の姿。三又の槍を持つ。これはシヴァ神も持っている。人間の三要素(激質、闇質、純質)を表していると言われる。

この稜線は、強い風によって大きな雪庇ができる。今年は雪が少なかったので、かなり小さい(3/25)

インドでは風の神が疫病をもたらすとされていた。インドではヴァーユやルドラと言われていた風の神は、仏教に取り入れられ「風天」という名前で知られるようになる。
これが日本にも伝来し、疫病をもたらす神である、と信じられるようになったのであろう。

京都の建仁寺にある有名な「風神雷神図屏風」はこの神の姿を描いたものである。以下にWikiPediaの「風神」の文章を引用する。
疫病神としての風の神は、空気の流動が農作物や漁業への害をもたらし、人の体内に入ったときは病気を引き起こすという、中世の信仰から生まれたものである。「かぜをひく」の「かぜ」を「風邪」と書くのはこのことに由来すると考えられており、江戸時代には風邪の流行時に風の神を象った藁人形を「送れ送れ」と囃しながら町送りにし、野外に捨てたり川へ流したりしたという[9]。江戸時代の奇談集『絵本百物語』では、風の神は邪気のことであり、風に乗ってあちこちをさまよい、物の隙間、暖かさと寒さの隙間を狙って入り込み、人を見れば口から黄色い息を吹きかけ、その息を浴びたものは病気になってしまうとされる[10]。また「黄なる気をふくは黄は土にして湿気なり」と述べられており、これは中国黄土地帯から飛来する黄砂のことで、雨天の前兆、風による疫病発生を暗示しているものといわれる[9]西日本各地では、屋外で急な病気や発熱に遭うことを「風にあう」といい、風を自然現象ではなく霊的なものとする民間信仰がみられる[11]
一方で、インドではこの神が病気を治すことが出来る、ともされていた。
そのため、医者の中の医者、千の薬を持つ治療主の主とも呼ばれる。

Rudra was believed to cure diseases, and when people recovered from them or were free of them, that too was attributed to the agency of Rudra.[31] He is asked not to afflict children with disease (RV 7.46.2) and to keep villages free of illness (RV 1.114.1). He is said to have healing remedies (RV 1.43.4), as the best physician of physicians (RV 2.33.4), and as possessed of a thousand medicines (RV 7.46.3). So he is described with an alternative name Vaidyanatha (Lord of Remedies).
暴風はすべてを破壊するが、浄化もする。
その浄化の力が、治療の力と同一視されていたのかもしれない。

今、外は暴風雨である。

この風とともに、新型コロナもどこかへ消え失せてほしいものだ。

2020年4月11日土曜日

インドの3神

インドのヒンドゥー教で最も重要な神様は、ブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァ(トリムルティ(神の3要素))である。
3柱の神はそれぞれ「本体」「維持」「破壊」の神である。
古くはリグ・ヴェーダの中に記されていた多くの神々を、後世3柱にまとめたのである。

この中で一番位の高い神様はブラフマー神であるが、普通直接崇拝されることは無い。
ヴェーダの奥義書とされるウパニシャッドの哲学の中で、しばしば議論をされるが、
ブラフマー神は「人間には一切認識されない」。認識されないが、ブラフマー神は人間に認識そのものを可能にさせている超越的な存在である。存在と存在しないものを超えているので、どのように表現しようと思ってもできないし、どうやっても知ることはできない。
このため、崇拝の対象にもなりえないのである。

このブラフマー神が、目に見える形を取ったのが、ヴィシュヌとシヴァである。
これらの神々は、本当は一体なのである。


ヴィシュヌ神。世界の維持をつかさどる。

ブラフマー神。宇宙そのものとされているが、人間の認識には決して上らない存在。

シヴァ神。世界の破壊をつかさどる神。

世界はこれらの神々によって、創造され、維持され、破壊されることを繰り返している、というのがインドの世界観だ。

ヒンドゥー教は後世いろいろな歴史を経て変容し、現在のインド社会の根底に息づいているのだが、宇宙の法則(リタ(天則)という)によって、すべてが決まっているという解釈をすることが多い。
厳しいカースト制度がいまだに根強いのも、ヒンドゥー教でそのようになっているからである。
これに対して仏教は批判的な立場を取ったので、インドでは存続できなかった。
しかしながら、仏教の根底には、これらのインドの世界観の名残が、色濃く残っている。

ヴェーダを読むと、昔のインド人は大自然の力を神になぞらえて崇拝していたことが分かる。
風や雨、雷、太陽、月、山、川などは、みんな神であった。空間や、感覚器官、や心ですら、神であった。

ヴェーダの意味を突き詰めて考えるならば、それら大自然の力を、私たち人間は超えることが決してできない、ということを言っている。したがって、それらの前に私たちはただひれ伏すしかない。
人間がそれらの力を手に入れることはできないし、どんな祈りも神々は聞き入れてくれない。

後世、神々の力は祈りによって人間が操作できるのだ、という考え方が生まれた。
それからブラフミン(バラモン)という神官階級が生まれ、神々に祈りを届ける存在になった。

ヴェーダを否定的にとらえる後世のウパニシャッド哲学には、それらに対する疑問が多くみられる。
私はそれが正しいと思う。

人間の力が、大自然に打ち勝てないことは、今も昔も変わらない。
大自然を支配した、思い通りに出来た、という人間の思い上がりが、いろいろな災害を招いている。

大自然のバランスを崩せば、それに対するしっぺ返しは当然来る。

2020年4月8日水曜日

アミガサダケ おいしいらしいが食べる勇気なし

アミガサダケは、桜の季節になると生えるキノコ。
これはヨーロッパなどでは、モリーユとかモレルとか言われる高級食材なのだそうだ。
しかし日本では見た目の気持ち悪さのせいなのか、あまり食べている人はいないように思う。
実際に少し毒があるようだ。
そのため生食はできず、必ず茹でこぼしてから調理する必要がある。
毒成分は「ジロミトリン」であり、加水分解させると「モノメチルヒドラジン」という物質になり、発散する。
この「モノメチルヒドラジン」が結構毒性が強く、本種の近縁種である、さらに毒性分の強い「シャグマアミガサダケ」の場合、十分に換気をしないと危険なほどらしい。
モノメチルヒドラジンはロケットの推進剤として使われていたことがあるらしい。
下手をすると、宇宙に旅立つことになる(笑)

こんなやばそうなキノコが、なぜ高級食材なのか。
このきのこは強烈なうまみ成分を持っており、「松茸やトリュフ以上」と評する人もいるくらいだ。
まさにトラフグ料理を食べる時のような、スリル感があるようだ。
まあ、シャグマでない普通のアミガサダケだと、それほど毒は多くないらしいが、それでも十分気を付ける必要がありそうだ。

まあ、食べることはないだろうけど。


この姿がグロテスクだなあ。
桜の木の近くに生えていた

2020年4月7日火曜日

近くで花見

近くに誰もいない場所があるので、写真を撮ってきた。
今年の花は特に美しい。コロナさえ流行っていなければ、素晴らしい花見日和になったであろうに。

春蘭。春の藪に咲く花。

椿も満開だ

桜は今がちょうど見ごろだろう

わさびの花も咲いていた

ひすいに太陽の光

ついに新型コロナのために、緊急事態宣言が出されることになった。
こうなっては、家にいるのが一番良い。いままでは注意しながら登山や翡翠拾いもしよう、と思っていたのだが、考えを改めざるを得ない。
Webで検索すると、実際に感染した人の激しい症状の体験談を読むことが出来るのだが、これは絶対にかかってはいけない病気だと痛感した。

良いお天気が続き、外に出たい。しかし、行けない。
行くまでに使う交通機関、たくさん人が集まる場所のことを考えると、やめておいたほうが良いと思った。
もしも感染すれば、自分だけの問題ではなくなる。

デスクワークをしながら、さんさんと降り注ぐ太陽光に、以前拾ってきた翡翠を含んだ岩を当ててみる。
なんとなく、癒された気がした。自然の力は偉大だね。
こんな石ころの中にも、大自然は宿っている。
何億年もの歴史を感じることが出来る。

もちろん、私たち自身の中にも、大きな力があるはずだ。
どんな悪質な病原体にも打ち勝つ力が、あるはずだと信じよう。

何度も載せているグリーン翡翠。太陽の光がいちばんきれいに見える。

今まで気にも留めなかったグリーンのスポット。

自分の持っている中で一番光を通すもの。透明な緑の部分がある。

これはうまく写真に撮れなかったが、全体が薄い緑色に発色する。

黒翡翠にも光を当ててみる。これは黒い部分が少ないタイプ。太陽光に当てると、ようやく結晶が確認できた。

2020年4月5日日曜日

本格的な感染拡大が始まる

荒れる日本海
新型コロナウイルス感染症が深刻さを増している。
4月にもなれば治まってくるだろう、と思っていたが、治まるどころか、指数関数的に患者数は増加。
ニューヨークなどではベッドが足りず、「トリアージ(命の選択)」を迫られるような、厳しい事態になっている。

NHKのサイト

ニューヨークの状況

特効薬が存在せず、重症化のスピードが速い。
いよいよ本格的に牙をむきつつあるウイルス。
なぜ国や自治体が緊急事態を宣言しないのか、甚だ疑問である。日本医師会は「早く緊急事態を宣言して人々の移動を制限しないと、医療崩壊を起こす」と警告している。

ノーベル賞受賞者の生物学者、山中伸弥教授も、HPを開設してその深刻さを訴えている。

ここまでひどくなってくると、仕事以外の外出は控えなければならない。
国が緊急事態を出す前に、かなり広範囲に広まるだろう。

できればこの週末前に、緊急事態を宣言してもらいたかった。
東京から「コロナ疎開」して、地方に多くの人が流れている。
この状況の中を移動するだけでも危険である。
家の中でじっとしているのが、一番安全だと思う。
電車やバスでの移動は、とても危険である。

このような状況になったからには、不用意に出歩くことはできない。
登山や散歩ですら、危険。
ましてや、街に出たりすることは、本当にやめておかなければならない。

まったく大変なことが起きている。

近く、ヨーロッパやアメリカののようになると思う。

自分の身は、自分で守ってください。政府は信用できない。

2020年4月2日木曜日

死神の教え


インドの古典「ウパニシャッド」は、ちょうど仏教がインドに興ったころに出来たとされている文献である。
紀元前600年から500年ごろであるから、今から2500年以上も前の話である。

この中の一つ「カタ・ウパニシャッド」は、死神との対話を描いた物語である。

あらすじを述べると、

坊さんに布施が運ばれていく様子を見ていたその家の息子が疑問を持つ。
「その布施は誰に与えられるのか?」とその家の家長である父に何度もしつこく尋ねたため、父は怒り、「おまえを死神に布施するのだ」と言う。

そのため息子は死んでしまい、死の国へ旅立つことになった。

その途中、息子は死んだ人が後から後からやってくるのを見る。

見よ、過去の人々と同じように、反対(=未来)の方向を見よ、あとから来る人々もそのようだ。人間は穀物のように成熟し、穀物のように再び生まれてくる。

死神の家に着いた息子は、死神が3日間不在であったので、帰ってくるまで待たされた。
死神は帰ってきて、その失礼を詫び、代わりにどんな願いでも3つだけかなえてやろう、という。

息子は、まず父の怒りを解いてくれるように願う。
そして次に、天国に導いてくれるお祭りのやり方を尋ねる。
これら2つに死神は快く応じる。

しかし3番目に息子が

死んでいった人について、疑問があります。-「彼は(死後の世界に)存在している」という人々もあり、他方「彼は(どこにも)存在しない」という人々もあるのです。このことについて、私は知りたい。これが3番目の願いです。
このように問われた死神は、これについては古来神々ですら疑問をもった難問であり、教えたくない、と言う。その代わり、どんな世間の享楽でも与えよう、と言う。
息子はそのような享楽は無常であって、価値のないものだ、と言い、死後の世界のことを知ることのほうが、ずっと価値があるのだ、と死神に詰め寄る。

死神は仕方なく、死後の世界について語り始める。

その内容は深遠そのものであるが、欲望のある者は輪廻し、この世の欲望に惑わされない者は、人が生まれもせず、死にもしないような世界を知る、というようなことが述べられている。
それは体験するしかなく、言語表現の領域を超えた世界である、と。

これは仏教の教えの中にも繰り返し現れるテーマである。
生き、悩み、苦しみ、最後には死んでいく、この世界の果てはどこにあるのか?
その原因は何か?
そしてそれを免れることはできるのか?

物欲や金銭欲などの欲望が満たされたとしても、この繰り返しをずっと続けるだけである。
永遠に満たされない欲望を追い続けることが、輪廻なのである。

これを静めるには、欲を起こしている原因が「追い続けることそのもの」であることを知るしかない。
何かが手に入れば、さらに良いものが欲しくなるだろう。
その繰り返しをやめない限り、決して精神が満足するということは、ないということだ。

生きている限りは、いやがおうにでも、生きなければならない存在が私たちだ。
ただ、そこでふと、求めているものの本質に目をやることによって、しばしの休憩を得られることは、あるのかもしれない。

死神の教えは、そのことを気づかせてくれる貴重な教えである。

2020年4月1日水曜日

美しいと思った石たち

石を拾うとき、まず大事なのが「きれいな石を拾うこと」だとは前にも書いたと思う。
その石がどのような石であっても良い。鉱物学的な価値なんてものは人間が後から考えだした虚構に過ぎない。そういうものに惑わされると「本当に美しい存在」を見過ごしてしまう。

自分の美的感覚でも、直観でも、何でも良い、そういうものを大切にすると、いい石拾いができる。
その存在自体が放つオーラというか、存在感というか。それを感じることがたいせつである。

下に紹介するのは、そういう石たちだ。ひすいであるとかないとかは、まったく関係ない。
ほとんどが石英に類するものだと思う。
石というのは、ほとんどケイ素を含まないものはないのだから、それでいいだろう。
わずかな質の違いによって、ごみみたいに捨てられている石をよく見かける。
下の石の中には、翡翠ハンターが捨てていった石も含まれる。
彼らは多分、ひすいの方が大切で「美しさ」なんてどうでもよいのだろう。

大小さまざまな美しい石たち。個性派ぞろいだ。

翡翠ハンターが捨てていった石の中にあった、美しい玉髄(カルセドニー。カーネリアンともいう)。光を通すとこんなに美しい。

純白の石英。これは浜辺でひときわ異彩を放つ白さだった。こんな白い石が美しくないわけがない。

含ザクロ石角閃石片岩だと思う。大きなザクロ石が美しい。

紫色の玉髄だと思われる。透過色の美しさはすばらしい。

ネフライトではない。多分オンファス輝石というものだろう。この黒と緑のコントラストが美しい。

ちいさなカーネリアンだろうと思う。

ひすい

緑玉髄か、アクチノライトか。自分が持っている石の中で、最も緑色が濃いもの。
どんな鉱物でも良い。
自分が美しいと思うものを拾えたら、それで十分だ。

どんな石でも、それぞれに個性があり、それぞれが貴いのだ。