2020年11月3日火曜日

人間社会とひすい


 今日は外に出られない。天気も良いのだが、いろいろと雑用があってね。
少しの時間、ブログを書いてみる。

海岸には無数の石があって、どれ一つとして同じ石は無い、ということは前回のブログで書いた。
その中からひすいを含んでいたり、貴重な石を探すことは、至難の業であるとも。

これは人間社会でも同じで、ひすいのような人間は100万人に一人もいない。
特別の才能に恵まれたり、ひとの役に立ったりできるような人間も同じである。
これは単純に努力をすればできる、という問題ではない。
例えば、ロディン岩がどれだけひすいになろうとしても、最初から無理なわけである。
ただし、ロディン岩はひすいを含んでいることはあるけれども。
また、ひすいを含んでいる岩石はけっこうあると思う。ただしそれはひすいであるとは言えない。
純粋なひすいなど、広い海岸の石の中にはほぼ存在しない。

石英などはそもそも、ひすいを含んでいることもない。

それでは、ひすいを含んでいない石は美しくない、というのだろうか?
いや、決してそのようなことはない。
むしろひすいを含んだ汚い石ころよりは、石英の方が美しいこともある。
つまり「材質=美しさ」ではなく、美しさは独立した価値なのだ。

広い海岸はいろいろな石が集合して、まるで宇宙のミニチュアだ。
さまざまな成分からなる石が、波に洗われて丸くなってはいるが、文字通り、数えきれないほど集合している。
この環境自体が、私の心に美しいという感覚を呼び起こす。
この海岸全体が、美しいのである。

人間はその中でひすいを探しているが、その価値は誰が決めたのか?
昔の人が呪具や装飾品、交易品として求めたからであろうか?
しかしひすいは5億年前からあるのに対して、人間の歴史はたかだか3、4百万年である。
海岸に普通にある石の歴史ですら、どんな人間の歴史より長いであろう。
自然の側から見れば、人間のやっていることはたいしたことではない。
ましてや自然は、自ら「美しくなろう」と思って美しくなったわけではない。

自然の世界は実に複雑である。人間社会はこの複雑な自然を単純にし、人間にとって利用しやすくするために努力してきたのだが、なかなか思い通りには事が運んでいないようだ。
人間もしょせん自然のリズムの中の一つであり、いつ消滅しても不思議ではない。
地球の歴史は過去にいろいろな生物の絶滅を経験している。

この海岸の横にある青海黒姫山も、かつて大繁栄したサンゴの仲間が作った石灰岩でできている。
近くには、石の間に挟まれた我々の先祖である貝や節足類の化石を見つけることが出来る。

たとえ人間が絶滅したところで、この大自然のリズムは少しも影響を受けない。
大したことではないのだ。

広い視野でこの世界を改めて感じてみると、自分の、そして人間社会の小ささを強く思うのだ。
われわれはしょせん「井の中の蛙大海を知らず」だと。