2020年12月24日木曜日

登山をやめる口実

 


”だが、それにもかかわらず、今日、私は認めざるを得ないーーー自分が変わったという自覚を持たないにもかかわらず、山に対するこの愛着が、砂の上を退いていく波の様に、私から離れていくのを。私の想いは同じであるのに、山の方が私から去っていくのだ。”レヴィ=ストロース『悲しき熱帯』Ⅱ「森で」(邦訳 p.278)
レヴィ=ストロースは、海よりも山、そして最後には「森」が好きだ、と告白している。
海は余りにも人間臭く、山はあまりにも孤独だ。しかしそれは狂ったように人間に求められる場所でもあり、結果人間に近い場所になってしまった。
「森」は生物の多様性を持ち、高山の山頂よりも「人間」から隔離された環境である。
この文には、私も深く賛同する。
森は人間の道を覆い隠し、自然のなかに解消させる。
しかもそこは非常に豊かな場所である。レヴィ=ストロースが日本の山を愛したのは、豊かな樹林帯があったからだと思う。
そこはたしかに「最も人間のいない場所」である。

近代式登山は、森の価値をあまり評価しない。頂を極めることが目的だからだ。
だから、眼下に広がる豊かな森林は、そこに至るやっかいな障害物でしかない。

レヴィ=ストロースが森林にひかれていったのは、それを障害物ではなく、豊かな多様性の存在する、おそらく地球で唯一の場所であることを感じたからだと思う。
森を発見した以上、もはや登山を続ける理由は無いのだ。

アマゾン川の流域に広がる広大なジャングル。その中に暮らす人間を研究していた彼は、その中で、現代の社会の深層に位置する構造を見出す。
それは決して貧弱なものではなく、近代文明社会と同等に豊かなものだ。
そこに暮らす人間と、西洋文明の中に暮らす人間は、同じである。
ただ、住む環境が違うために、習俗や文化が異なるように表面上は見えているだけなのである。

西洋文明社会はアマゾン先住民を「野蛮人」ととらえて、自分たちの文明の優位性を強調する。
「首を狩るような野蛮人と、コンピューターを操る最先端の人間のどこが同じなのか」と西洋文明の人間は言うだろう。
「野蛮人」は憐れむべき人間だ、キリスト教によって文明化しなければ救われない、と言いつつ、どれだけの文化を破壊してきたことか。
逆に、彼らが軽蔑している「野蛮人」の文化によって、西洋文明社会の文化が強制的に破壊されたとしたら、西洋文明社会は、いったいどう思うだろうか?

実際、西洋文明は「野蛮人」に対して、首狩り以上にひどいことをしてきたのである。
そのため、現在先住民族は文化を失っている。
これは世界中で同時進行中の出来事でもある。

人間が多様性を失い、単一化されつつあるのが、まさに現代社会である。
しかしながら、それは人間の中にある深層「構造」が、失われたことを意味していない。
それらは、外観を変えながら、間違いなく我々の社会の奥底にある。
だからこそ、言語は多様性を今でも失っていない。
日本語があり、英語があり、フランス語があり、中国語がある。
表面は単調に見えても、実際には何も変わっていない部分がある。
その仕組みが、森の中にある。

その森を破壊することは、破壊するものが自らの首を絞めることになる。
事実、人類は新型のコロナウイルスによって、殲滅されかかっている。