2019年9月2日月曜日

渡れない石橋

あずさ弓

私の愛読書の中に、イギリス人のカーメン・ブラッカー女史が書かれた日本のシャーマン文化に関する研究である『あずさ弓』がある。

この本を初めて読んだのは、もう20年ほど前になろうか。外国人の目から見た、日本の山岳宗教の実際について、詳しく描かれている。イタコの修行、御嶽山の憑依儀礼、出羽三山の峰入り、熊野の修験などについて、実際見られたことや考察されたことが、非常にまとまりのよい文章で述べられている。
日本人が同じものを書いても、これほど細かく注意深く観察しないであろう。
彼女が外国人で、昔から日本文化に興味があったればこそ、これだけのものを書けたのだと思う。
私はこの本に出会わなければ、山などに興味を持たなかったかもしれない。
今でもたまに読むこの本の最終章に出てくるのが、謡曲『石橋』の話だ。


ある僧侶が、中国へ求法の旅に行った折、中国の清涼山(実際は、天台山)に架かる石橋を渡ろうとする。

この橋は幅30cmもなく、苔むしている。両側は断崖で、気も遠くなるような高さである。落ちれば命は無い。

渡った先は、文殊菩薩の浄土である、という。
僧侶が渡ろうとすると、木こりの童子が現れ「相当な修行を積まないと、渡れないであろう、どんな高僧でも、この橋を渡れない者もいる。突然やってきたような者が渡ろうとするとは、なんと危なっかしいことだ」と言って止める。

この橋は、人間が作ったものでは無い。大自然が作り上げた造形である。
およそ人間が渡れるようなものではないのだ。

そこで、僧侶が渡るのを諦めると、橋の向こうから、文殊菩薩の使者であり、乗り物でもある獅子が現れて、舞を舞う、という筋書きである。

江戸時代の画家、曾我䔥白(そがしょうはく)がこの橋を描いた絵が有名である。この絵は現在、海外(メトロポリタン美術館)にある。橋の上を獅子が渡ろうとしているが、落ちている者もあるのが描かれている。それほど、細い橋なのだ。

カーメン・ブラッカー女史が『あずさ弓』の最後にこの話を持ってきて、突然擱筆してしまったのは、何故であろうか?

この橋は、現在でも中国に実際にあることはあるのだが、かつての宗教的イメージとは全く似ていない、自然にできた石橋である。

つまり、この橋は昔の人の心の中にかかっていた、橋だったのだ。

女史は『あずさ弓』の各所で、日本人の精神文化が消失していくのを嘆かれている。
山は開発され、かつての深山幽谷も、普通の人々がレジャーとしてやってくる。
かつて神聖な場所であった山の上が、現在ではまったく世俗化してしまった。

この橋は、聖なる世界との架け橋である。この橋を渡るには、安易な気持ちでは渡れないのだ。
女史は、そのことを、最後におっしゃりたかったのではないかと推測する。