あの親不知海岸の、ごろごろした石の海岸を歩いていると、ここが北アルプスの果てであることが、実感を伴ってせまってくる。
なぜなら、岩が北アルプスのものと、同じだから。
「北アルプスの果てに来てしまった」と思ったら、登山する動機が急に失せてしまった。
もしかしたら私は、この海岸を目指して今まで歩いてきたんじゃないか、と思ってしまった。
もちろん、栂海新道を歩き通したこともなければ、穂高の西奥縦走路を歩いたことさえない。しかし、なぜか「ここが行き着く場所だったのだ」という思いが、強く迫ってくるのだ。
大きな北アルプスの稜線が、そのまま海に落ち込んでいる場所は、そんな感慨にふけらされる場所でもある。
これからも、登山を続けるとしたら、どこへ行けば良いのか?
目の前に広がる日本海の荒海に向かって、自問自答している。
海は荒海 向こうは佐渡よ
すずめ啼け啼け もう日は暮れた
みんな呼べ呼べ お星さま出たぞ
暮れりゃ砂山 汐鳴りばかり
すずめちりぢり また風荒れる
みんなちりぢり もう誰も見えぬ
かえろかえろよ 茱萸原わけて
すずめさよなら さよならあした
海よさよなら さよならあした (北原白秋『砂山』)