2022年5月27日金曜日

中央集権

 


新型コロナの流行は、社会を大きく変えてしまうきっかけになった。
まず分かったことは、コミュニティーというものが、あてにならなかった。
「集まってはいけない」という状況は、それまでの社会の無駄と時代錯誤を暴いた。
そして欧米や新興国で普及している「デジタルによる行政の効率化」が、日本では信じられないくらい遅れていることをはっきりさせた。
いまさらではあるが、日本もようやく重い腰をあげつつある傾向が出てきたように思われる。
躊躇している間に、世界から取り残されてしまったのではあるが。

そして、「無限成長」が神話であることがはっきりした。
日本はこれからスタグフレーションの時代になり、自己責任が強く求められることになる。

簡単に言えば「だれもあてにならない」時代になる。
「自分のことは、自分の責任で」ということを、強く求められる。
今までは周りの人間がなんとかしてくれた。
しかし、今、自分の力で、情報を集め、自分で判断し、助けを求めるなり、申請をするなりしなければならない。それがより強くなってくるだろう。
デジタル化の進展によって、仲介する人間がいなくなってくる。

では「デジタル化」に対応できない人は、どうするのだろうか?
そこを考えていないのが今の日本だ。欧米では、十分にサポートを行っている。

しかし、国家によって個人の情報が完全に掌握される状況は危険な状況でもある。
今まで「国」「地域」「個人」の3段階あった社会が、「国」と「個人」しかないことになってしまう。特に日本人は「個」という概念に乏しいため、「個人」という概念を基本的にはもっていない。
そのような「個人」は常に弱い立場であるから「国」は個人をコマのように、思い通りに操ることができる。
「ビッグブラザー」はAI制御で、国民を細かい部分まで規制するだろう。
規制に逆らうものは、無視される。

規制を受け入れることは、たしかに強制されない。
しかし、受け入れなければ無視されるのだ。
以前はこの「無視」の部分が、「地域」でカバーされていた。
それが無くなるのである。

結局、これは強力な「中央集権」国家を生み出す。
無機質な「国家」が、機械的に政治を行う時代になるだろう。
なんともやるせない未来だが、そういう方向に向かっていると言わざるをえない。

このような「デジタル社会」は、アメリカやヨーロッパが作った。
それを東アジア地域に適用すれば「中国」のような国家になる。
ヨーロッパでは「個」の概念がしっかりあるため、中国のような「中央集権」国家にはなりにくい。

中国は超デジタル国家だ。もとはそうではなかったのであるが、無理やりそうした。
その結果が生み出したのが、今の中国の姿ではないだろうか?

「デジタル社会」は東アジアの土地に合わない。
仕組みや思想が、欧米とはまるで違うからだ。

無理が通れば、道理が引っ込むのである。
これからどのような未来が待ち受けているのだろうかと想像すると、空恐ろしくすらなる。