2022年5月12日木曜日

条件が尽きるまで


 山に登っていると思う事がある。
「ここで、もし死んでしまったらどうなるのだろうか?」と。
いつそうなるとも限らない。山は危険だから。

人間が生きているのは、よく考えてみれば「自分の力」とか意志とか意識の力ではない。
もっともっと、はるかに大きな存在に生かされているのだ。
複雑な関係性、つながり、条件のからみあいの中で、たまたま何かを考え、存在している。
それは「水の泡」のような一時的な状態なので、ずっと存在することはない。
条件が尽きれば、形を失い、人間の基準で言う「存在する」という状態ではなくなる。

そう考えてみると、目の前にみえる景色も、なにもかもが意識のつくりだした「幻」である。永遠にそこに存在する「実体」ではない。

生きていることは自分の意思ではない。自分の命だ、と思い込んでいるが、そうではない。
仮に自分の意思で生きることができるのであったら、1000年生きようと思えば生きることができることになってしまう。
自然に老いが始まり、そして死んでいく。

都会ですら、昨日あった店がなくなり、数か月すれば別の店が営業していたりする。
山もいつも同じ形をしているわけではなく、去年あった道が無くなっていたりする。

だとすれば「昔と同じ」記憶にこだわり続け、「去年と同じだ」と思っているのは「現実」を見ていないことにならないだろうか?

自然界の流れに従って、私たちは生き、死ぬ。
それに対して素直になれば、悩むことは少なくなるのではないだろうか?
だれも、何も持っていないし、作ったものも、発明したものも無い。
「あたま」がそのように見せているだけではないだろうか?