2020年6月14日日曜日

誰もわからない世界



人間社会というのは、「共通認識」で成り立っている。
「私はそれが無いと思う」と言っても、その人以外の多くの人が「いや、それは厳然として目の前にあるのだ」と言えば、多いほうの意見が採用される。
多数決の民主主義社会では、これが真理である。

一方の共産主義国家や独裁主義国家ではトップに立つ「個人」の信じる見解や思想が絶対的に正しいのであり、多くの人間が真理だと思っていることでも、トップが間違いだといって否定すれば、それは間違いになる。

人間は真実に対する「なんらかの基準」を必要とする。
その基準があいまいになると、一歩も前に進めないことになる。
しかし周りの人間が理解できることでないと、それは相手に伝わることすらない。

まれに「自分の基準は、自分だ」と主張する人が現れることがある。
これは真実に対する「いまひとつ」の在り方であり、資本主義や共産主義、あらゆる「集団的な幻想」を超越し止揚した在り方でもある。

この立場では、「意志と表象としての世界」ではないが、自分のすべては自分が作る。
ただ、それを生み出しているものを、我々は知ることが出来ない。

このため、人がいったんこの立場に立つと、誰もその人の考えていることを理解することが出来ない。
言葉に表しても、誰の心にも届かない。
言葉の限界を超えて表現する、というのは、そもそも不可能なことをしようとしていることになるので、わけがわからなくなってしまう危険を常にはらんでいる。

あまりにも強烈な経験をすると、人はそのような方向に向かってしまうことがある。
自分の体験を、何とかして伝えたいと思うために、言葉や映像や芸術やその他の表現で伝えようとしてしまうのだ。

しかしそれは成功することは少ない。それらの表現手段が、体験に対してあまりにも貧弱であるからだ。
したがって表現手段を超えた体験をすると、どうしても無理をしてしまう。

私がこの文章を書く時に、実はある人物を思い出しながら書いているのであるが、最近その人は無理をしていると思う。

数理哲学者のR.ヴィトゲンシュタインは「人間は語りえないことに対しては、沈黙すべきである」と言っているが、これは本当にそうだと思う。

彼が自らそのことに気づき、また元の一登山者に戻ってくれることを願っている。