樹木をよく見ていると、どの樹木も同じ「構造」をしている。
幹があり、枝が分かれ、さらにその先が細かく分かれている。
こういうのを「木」構造といい、データ構造にも「二分木」とか「多分木」というのがあり、数値やプログラムで表すことができる。
今の高度な科学は自然の「構造」を真似てつくられているものが多い。
しかし、昔はそうではなかった。
あくまでも厳然とした「理性」があり、その理性を使う「主体」という絶対的な価値があり、それが真理だ、と考えられていた。
それ以前はすべてを知っている「神」が、真理そのものであった。
今のものの考え方の根本にはこのような絶対的な「真理」は存在しない。
ただ、自然や社会の「法則」というか「構造」がある。
意識するかしないかにかかわらず、社会の目に見えない「不文律」みたいなものが、この世界を動かしている、と考えている。
そこではその「不文律」が「主体」を消し去ってしまう。
限りなく「運命論」「宿命論」に近くなってしまうが、それとも違う。
なぜならそれらに必須であった、唯一絶対の「神」が、今の世界ではどこを探してもみあたらないからだ。
それに代わって「科学」や「政治」がその場所に居る。
しかしそれは「人間」でしかないため、強制力を持たず、民衆は馬鹿にしているぐらいだ。
人間が自然状態にあって、社会を作り上げるとき、その「不文律」は当たり前のルールとして、各人がみんなよく知っている。特別の知識はなんら必要ない。
意識するかしないかにかかわらず、人間はその不可避なルールに従って生活している。
一方でそれから外れた者を、排除する仕組みがある。
しかし昔と違うところは、それがより「小規模」になり、ますます小さくなる傾向にあることだ。
そうなると、問題が起こってくる。それは最後には全くの個人という枠の中に収められることになり、「共通」するものがどこにもない、という状態を作りうる。
そこで出てくるのがより深い意味での「不文律」であり、ほぼ意識されていない世界に「共通認識」を求めようとする傾向だ。
そこから独裁主義が現れると、とても危険な状態になりうる。
全くの個人の集まりがより深い不文律を突き付けられると、むりやり「共通認識」を持つこともありうるからだ(もちろん、それはただの幻想にすぎない!)。
しかしより深い心理領域は、もともと不用意に近づけない仕組みになっているようで、いろいろな知識人、芸術家、政治家、哲学者、宗教家などがそれを白日のもとにさらそうとしたが、ことごとく失敗している。それは姿形がなく、決して人間が意識することのできない世界だからだ。
形のない世界を、形に表そうとすること自体が自家撞着しているので、とても奇妙なものを作ってしまうが常なのである。
実際、そのようなものが「存在する」ということは出来ない。
しかし、その上に「主体」やら「社会」やらが建っているのは確かである。
したがって、それは、「ある」ともいえるし「ない」ともいえる。