2019年10月28日月曜日

「価値」って何だろう?

奴奈川石などは、科学者が見出さなければただの石ころであった。価値なんて、そんなものだ。

世の中にはいろんな物がある。
その中で今の人がもっとも価値がある、と考えているものはおそらく「金」であろう。
この「金」という鉱物の価値があるのは、

1、希少であること
2、変質しないこと

が主な理由だ。これをたくさん持つことが、現代人のほとんどが目指しているところか?
これを持っていることによって、飢えや寒さに苦しむことがない。食物、住居や衣服と交換できるからだ。
つまり、これを持っていることによって、少なくとも死ぬまでの間は、命が保障されるわけだ。

近代以降、「金」はあまりにも希少なため、その代りに「通貨」が国家によって発行されるようになった。これは「金」と同じように、食料その他と交換できる。
最初は銅などの金属、そのうちに「紙」、今では暗号化されたデータがその役割を担うことになっている。(鉱物が「価値」を担うのは、余りにも時代遅れだ。もはやそんな時代である。)

暗号化されたデータは、理論的に書き換えが不可能であり、物理的に盗難にあうこともないために、近年爆発的に普及してきている。しかしながら、これにはある問題がある。

まず、暗号化されたデータの「価値」を、いったい誰が保障するのか?
クレジットカードその他は、「現金」の裏付けがあるから、「価値」が認められているに過ぎない。それは結局「国家」が価値を認めている、ということになる。しかし、そのシステムが崩壊すれば、「価値」は保障されるのだろうか?

また、これらのデータを「価値」ある物と認められないし、理解できない人たちにとっては、全く「価値」のないものとなる。第一、その使用の手続きを行うことが、不可能なのであるから。

つまり「価値」というのは、何らかの「裏付け」もしくは「保障」ということにならないか?

糸魚川の翡翠などが、その金銭的「価値」が認められる以前は、漬物を漬けるための石として使われていたらしい。
理由は、比重が大きいので、重く、漬物がよく漬かったかららしい。また、漁師が番屋の屋根を風で吹き飛ばされないために、屋根に乗せたという。これもこの石ころの「価値」を見出した例である。
じつに実用的な「価値」ではないだろうか。

最初に話を戻すと「金」は永遠に変質ぜず、産出量が少ないため突然多量に存在する可能性がないために、「価値」があると認められた金属である。

これは翡翠やその他の宝石にも共通するように思う。
「金」の価値と類似するところがあるから、宝石には価値がある。
また、宝石には変質せず、希少であるという価値の他に「美しい」という価値がある。
そのため、とんでもない金額で取引されている場合がある。
美術品としての「価値」も併せ持っているのである。

しかしながら、「価値」は誰かがそれを「価値」がある、と言わなければ成立しない。
もしもだれも言う者がいなければ、それは無価値である。

結局、「価値」というものは人間が決めているものである、と言えるだろう。

したがって、この世で一番価値のあるものは、価値を創り出した「人間」ということにならないだろうか?

また「価値」は時代によって大きく変わる。
翡翠の歴史を見れば分かるように、縄文時代は最高の価値を持っていたが、仏教が普及した奈良時代に至っては、野蛮人の価値だ、と忌み嫌われ、近年に至るまで、すっかり忘れ去られていたのである。

なんども言うように、翡翠なんてただの石ころである。
「金」も同じようなことが言える。