2019年6月9日日曜日

人生を変える美しさ


とある有名な宝石加工家の方のブログを読んだ。
するとこんな記事が。
「ヒスイは宝石なんだ。海岸に転がっているのは、ひすい輝石を含んだ汚い石ころに過ぎない。某機関がこんなものをヒスイだと鑑定するなんて、どうかしているぜ」「このレベルの天然石よりはむしろ、人工的に合成されたヒスイのほうが、ヒスイと呼ぶにあたいする」

確かにヒスイ輝石と宝石の「ヒスイ」は別のものである。
宝石は「美しく」なければならない。全くの正論であり、この点については納得できる。

1960年代に理化学研究所を退職された飯盛里安氏(金沢市出身の偉大な化学者である)は、人工的にヒスイを作ることに成功した(ただし天然もののヒスイと同じ成分で作ることは出来なかった)。これが「メタヒスイ」と言われるもので、最高のクオリティーである。飯盛氏は会社を設立し、人工宝石の生産を行ったが、これは日本でよりも、海外で高く評価された。
今では会社自体が終了しているために、幻の石だとされている。(IL-Stoneと言われ、現在入手困難である)

この石の方が、天然物よりずっと「宝石」と言うにふさわしいものであるのは、写真を見る限り間違いないようだ。
ただ、日本であまり評価されなかったのは、これが「人工物」である、という理由からであった。
飯盛氏は「日本人は美しさを理解しない」と嘆いておられたと言う。
同じ人工物であっても、抹茶茶碗のような陶芸の美は理解される。この辺の感覚がよく分からない。

宝石加工家の方は、多分自然自体はお嫌いではない、と思う。
ただ、その自然に対して、科学の権威を着たラベルを貼るという行為に、疑問を持たれているのかなあ、と思う。(私がそう思いたいだけなのでしょうかね)

事実、縄文時代に作られたヒスイの勾玉については、「汚い」なんて表現はされていない。なぜなら、それは自然に作られたものを加工したものであっても「美しい」からである。

本当に美しいものには、めったやたらにお目にかかれるものではない。
だが、それにお目にかかれた時に、私たちは魂を揺さぶられるのだ。

栂海新道を拓かれた小野健氏は、青海川の上流にあった「含ざくろ石角閃石片岩」に心底惚れ込み、糸魚川に骨を埋めることにされたらしい。

そういう「人生を変える美しさ」に、出会える人は幸せだと思う。
それが「人工物」であるか「天然」であるかは、関係ない。
その人が「美しい」と思ったものが、それなのだ。