2021年3月3日水曜日

海岸と賽の河原

佐渡の海岸にある「賽の河原」 

親不知から佐渡方面。ここから佐渡は見えることがないが、宮崎の大鷲山から条件の良いときのみ、見えることがあると言われている。

”賽の河原”はこの世とあの世の境目にある三途の川の河原である。
幼くして亡くなると、ここを渡ることが出来ないという。
何も出来ないので、せめて両親や兄弟やふるさとの人々を供養しようと思い、石を積む。
するとそこに地獄の鬼が現れて、そのケルンを崩していじめるという。

親不知の向こう側にある佐渡の「願」地区には、賽の河原があり、たくさんの石塔が供養されている。
青森の恐山の賽の河原では、風車を供養して亡くなった子供を弔う。

だれもいない、石のごろごろした海岸を彷徨していると、「ここは現世と違うんではないか」という錯覚に陥ることがある。
飲まず食わず、ふらふらで歩いているために、流木が人に見えたり、おかしな声が聞こえてくることもある(疲労の為にウミネコの声が人間の声に聞こえているのである)。
そこまでして、ひすいを探さなくてはならないことがあるのだろうか?

まさに、石拾いは賽の河原で石を積んでいるような「むなしい行い」に過ぎないのではないか?
一銭の金銭的価値もない、まさに石ころであるものを、まぼろしを追い求めるように、求めて歩く。
人生の縮図の様にも思えるこの行為が、与えてくれる「幸せ」とは一体何なのだろうか?