2020年3月19日木曜日

天然石を削らない理由

さまざまなタイプのひすい

海やけの入ったもの、表面が滑らかでないものなどもあり、判別に苦しむ

私は、ひすいを磨かない。なぜなら、どんなに磨いたとしても、それは自然の研磨にはかなわない、とおもっているからだ。
日本人は古来からこの石を「勾玉」などに加工して身に着けてきた。
磨くことによって、さらに美しくなることは確かだとは思う。
それを否定する気はさらさらない。

しかし、私にはどうしてもできない。それは以下の理由による。

■ 糸魚川翡翠は、品質が高くないので磨いても美しくならない

前にも書いたが、糸魚川ひすいは品質が良くない。石目が多く、割れやすいため、加工には向かない。
よい品質の石が採取できた縄文時代は別として、今拾える石は品質が悪い。
石目の少ないミャンマー産ひすいのほうが、断然加工に向いている。

■ そもそも大自然の造形そのものに価値があるのではないか?

海岸の石は、何千年、何万年の歳月をかけて、波が研磨したものである。
そのこと自体が価値なのであり、それを削ってしまうことは、その価値を無くしてしまうことになりかねない。
ごつごつした岩石を眺めること、そのことによってパワーをもらえることがある。
たとえそれが、何の価値もない石ころであったとしても。
それぞれの石が刻んできた「歴史」を尊重し、畏敬の念を持って鑑賞したい。
「無為」は真実に近い。人為というのはより美しくしたい、などの「欲望」を含むからだ。

■ 売るつもりがない

それぞれの石は、それぞれ価値がつけられない。
どんなつまらない石ころにでも、その「存在」自体に価値があるものだ。
それに対して、人間が金銭価値をつけることは、あさましいような気がするのだ。
また、石を拾えた、ということは何かの縁があって、拾えたのである。
石ころとの「きずな」を大切にしたいと思う。