2020年3月13日金曜日
人間の無力さ
わたしは大学、大学院時代にインド思想や仏教を専攻していた。
今でも、研究というものはしていないものの、インド思想や仏教の書物は頻繁に読むのである。
インドで最大の哲学者は、シャンカラという人物である。彼は仏教の影響は受けているものの、インド土着の宗教であるヒンドゥー教の代表的な思想家である。現代インドの90%以上を占めるヒンドゥー教は、何らかの形で彼の思想を受け継いでいる。
シャンカラは独創的な哲学者というよりはむしろ、古代の書物に優れた注釈を著したことで大いに影響力があったのである。
仏教に対しては、積極的にその説を批判し、論破しようと試みている。
シャンカラの思想の特徴は「不二一元論」という言葉で表される。
簡単にいえば「宇宙とわたしという存在は、一体で区別がつかない」という説である。
では、なぜ「わたしとあなた」などの二元対立が起こるのか、というと、我々が無知だからである、と断言する。
シャンカラによれば、私たちが見るもの、聞くもの、つまり感覚するもの全てが「もともと宇宙と一体である」ということを知らないことよって、幻のように現れたものだという。
幻であることを知らないので、それに対して「行為」を起こし、苦しむのである。
なので、人生の苦しみをなくすには、我々が大自然と一体であることを悟り、いかなる「行為」も放棄することが必要だという。
そのためには、決して感覚も、認識もできないが、これを「悟る」ことが必要である。
これは「ブラフマン(梵)」の知識と呼ばれる。それは永遠不変の神であり、決して変化することが無い「宇宙の理法」そのものである。
仏教との大きな違いは、この「ブラフマン」を認めるか、どうかということと、「行為」に対する考え方である。
仏教は「無我」を唱えるので、いかなる永遠不変の実体も認めない。
また、「知識」ではなくて「行為」によって真理を知ることができる、とする点が違う。
まあ、仏教もヒンドゥー教も同じインドを起源とする思想なので、基本的にはお互いに影響を与え合い、そのうちに渾然一体となっていくのではあるが。
いずれにせよ、「宇宙の理法」という大きなものの中に、人間存在が含まれているとする点では同じである。
その前では、人間の小賢しい知識は、ゴミみたいなものにすぎない。
新型コロナウイルスで世間は大騒ぎであるが、人間にはこういうウイルスがなぜ生まれてくるのか、とか、どうして伝染するのか、とか、どうやったら防げるのか、という知識すら無い。科学者が必死になって問題に取り組んでいるが、なかなか簡単にはいかない。
それは、この人間社会自体が大自然の中の、いささか間違った方向に進みつつあるコロニーにすぎないことを、示しているのではないか。
前にもどこかで書いたことがあるが「自然と人間」の分断は、人間の傲慢であり、自分の立っている土台を忘れた結果の誤った認識である。
人間は大自然の理法の前には無力なのである。