2020年3月30日月曜日

金山谷の黒翡翠


前から拾ってみたいなあ、と思っている石に「金山谷の黒翡翠」がある。
あの真っ黒な黒翡翠と、オンファス輝石に由来する鮮烈な緑色がはっきり分かれた色を持つこの石は、青海川上流の金山谷(昔金山があったので、そう言われる)で産する。
今は立ち入りが禁じられているので、ここの石は海に流出したものしか拾えない。
(よく川で採取する人もあるが、川は勝手に入ってもいいのかな?グレーゾーンなので私は行く勇気がない。また川の石は、あまり磨かれていないので、どれも同じに見えてしまう。加工をしたい人は、川で石を拾うのかな?)
また前に紹介した、奴奈川石、青海石などの産地も、金山谷である。

ここにあった石が、何万年もの歳月をかけて、海に流れ着くことがある。
以下の石は、この「金山谷の黒翡翠」と言われるものではないか?と思ったものであるが、どうも自信がない。
まず、最初に拾った時にはロディン岩だと思った。しかし乾いても艶が失われない。
また、光を通すと、ネフライトに似た色だ。なので、自分の中では一応そういうことにしておいたのである。

第一、この石は結晶が非常に細かくて、よく見えない。
ごく細かい結晶が一部にあるようには見えるのだが、はっきりしない。
ひすいを含んだ岩石は、「キラキラ」光る結晶が見えるはずだ。
これが結構大きな決め手になるのだが、どうもそのようには見えなかった。

また、ひすいだとしても、色が「蛍光緑」ではない。
草色というか、灰色と混じった緑である。だが、一部には鮮烈な緑も見られる。

しかし、私の知るネフライトは、光を通すと全体にくすんだ緑色が広がり、繊維状の組織が見えるのだ。
この鉱物は、そうではなく、光を通す部分と、そうでない部分が混在する。

石英でもない。石英であれば、もっと軽いはずだが、ずっしりとした重量を感じる。

もしこれが「金山谷の黒翡翠」であれば、私の思っている石とはだいぶ印象が違う。
蛍光グリーンや濃緑色の透明なオンファス輝石と、漆黒の黒翡翠がはっきり分かれているのが、私のイメージだ。

多分、ちがう石だと思う。

黒い部分に、緑の脈みたいなものが入り込んでいる。写真で見ると、わずかに結晶も見えるようだ(肉眼ではほとんど確認できない)

透過光。よく光を通す部分もあるが、この光がネフライトのように見えたので、そう思っていた。

鮮やかな緑の部分もある。ひすいは母岩に熱水に含まれるひすいが入り込んだものだという説がある。まさに何かが流れ込んだように見えるのだ。

海焼けも入る。白、黒、緑の鉱物である。これが金山谷の黒翡翠という石であれば、私の印象とはだいぶ違うのだ。

2020年3月28日土曜日

赤いひすい輝石岩

海岸のひすい輝石岩(あくまでもひすいを含んだ岩石)は、「海焼け」という茶色の部分がある場合が多い。これはひすいの緑色が塩化鉄(Ⅱ)に由来することによる。

要はこの鉄分が、海水によって酸化鉄になっている、ということだ。
これによって、赤みがかった色になっている。しかしこれは普通「赤翡翠」とは言わない。
真に赤翡翠と言えるようなものは、ミャンマーで産するような、全体が赤色のものである。これは深いレベルで、岩石そのものに酸化鉄が含まれていることによる。
これは糸魚川には存在しない色だと言われている。

だが、実際にはわずかながらあるらしい。
以下の写真のようなものが、もしかしたらそうなのかな?と思ったので載せてみる。
多分、単なる海焼けだろうけど。

典型的な海焼けの入ったひすい輝石岩。

光を通すと、あまり色は変わらない。基本的に黄緑色。これはひすい輝石岩では普通である。

これは糸巻きひすい輝石岩。見た目は普通の灰ひすいにしか見えない。

上のものに光を通すと、全体に赤みがかった色が広がる。海焼けとは異質な感じがする。これは深いレベルで酸化鉄が入り込んでいるのではないだろうか?

これも海焼けの入った普通のひすい輝石岩に見える。だいぶ粗いが、ひすい結晶が確認できる。

緑色の部分は、普通に緑色に光を通す。

しかし、裏返してみると、白いひすいが付着しているようだ。結晶がはっきりあるので、これはひすい輝石であろう、と思われる。

光を通すと、強い赤みが感じられる。これも、深いレベルで酸化鉄が影響しているように思われる。

2020年3月26日木曜日

自粛していたんだが、行ってしまった

前金剛山頂への最後の登り

昨日は非常に良い天気。
山は「3つの密(換気の悪い密閉した空間、多くの人の密集する場所、近距離での密接した会話)」に該当しないから、行っても大丈夫だろうと思い、禁を破って行ってきた。

※追記 今後、ロープウェイ、登山バスを使用する登山は、しばらくできないと思います。また、県境を超えるような登山も自粛すべきであると考えています。




YAMAPに記録を書きました。

実際、今の時期としては割と人が少ないように感じたが、後から10人ぐらいの登山者とすれ違ったかな。
皆さんコロナを意識してか、言葉少な。
「こんにちは~」ぐらいの会話しかしなかった。
風も午後から出てきたし、ウイルスなど、消し飛んでいることだろう。

いつも登山の帰りは温泉に寄るのだが、昨日は家に直帰。

はやくコロナが収まってくれないとね。
素晴らしい景色だったはずだが、なんとなく、心が浮かなかった。

2020年3月24日火曜日

パワーストーンは信じない


身もふたもない話をすれば、私はパワーストーンなるものを信じていない。
私が海岸できれいな石ころを探すのは、ぶっちゃけ、気分転換。
その時に目を引いた石ころを、ちょっと拾ってくる程度だ。

写真のような石だらけの海岸を、ぶらぶら歩くと、この世のストレスが消し飛ぶ。
空気はきれい、人間のごちゃごちゃした話し声は聞こえない。
聞こえるのは波の音、風の音だけ。

それ以外のなにものでもない。
こんな科学の発達した時代に、何の神秘があるか。

もちろん大自然を尊敬し、敬う心は忘れない。我々がこの大自然の中で生かされているのは、事実だからね。
ただ、その力を過大に評価したり、変に価値付けたりすることはしない。

石を拾ってアクセサリーにして身に着けたとしても、何が変わるわけでもない。
身体に多少余計な要素が付け加わるだけだ。
私は余計な要素が少しでも追加されると、気になってしまう体質なので、腕時計すら面倒だと感じてしまう。
ペンダントや指輪なんてもってのほかだ。

だから余計にそう思うのかもしれないが、パワーストーンなんてものは、この世に存在しないと思う。

もしもあるとすれば、きれいな石ころを見た時の、感動みたいなものが、心を勇気づけてくれることがあるのが、それかもしれない。
ただそれは、あくまでも自分の心が、自然の造形を見て感動することが原因だと思っている。

大自然は美しい。
その中に身を置くと、心が洗われるような気がするだけなのだ。

2020年3月20日金曜日

100日後に死ぬワニ、完結

※ 100日後に死ぬワニ(ネタばれ注意)


今日は2020年3月20日だ。
この日は、マヤ暦が「世界の終わり」を示している、とか、インド歴がそうなっているとか(インドは歴史の無い国だ、と言われるぐらいだから、暦も怪しいもんだ)。
いろいろ言われていたが、結局世界は終わりそうにない。
しかし、偶然なのか、Twitterで話題の「100日後に死ぬワニ」が最終回になった。

ネタばれになるので、多くは語らない。
しかし、シュールな終わり方だった、と思う。

人間いつ死んでもいいように、準備だけはしておく必要があるのかな?
一年一年、死に向かって進んでいくことは、間違いない。

なんとなく生きて、なんとなく去っていく。

そういうのが、一番いいのかもしれないな、とは思った。




ひすいの判定が難しい訳


ひすいとは

姫川薬石庵 コバさんのブログより

ひすいの判定がなぜ難しいのか、かなり悩んできたが、上のページを見てなんとなく結論が出たような気がする。
要するに、糸魚川で拾えるような石は「岩石」であって、宝石の「翡翠」ではないのだ。

岩に僅かばかりの翡翠が混じっていても、それを翡翠とは言わないのだ。
蛇紋岩などの、他の鉱物が混じっていても、それは翡翠ではない。

この定義に従えば、糸魚川の海で拾える石は、ほぼ100%、ひすいではないのだ!

本物の翡翠とは、例えば下のリンクにあるような、極めて純度の高いものだ。
純粋な翡翠は透明で氷のようである。これを「氷種」という。
糸魚川にはこのような石は、どこを探しても無い。
宝石に値する石は、これに不純物がごくわずかに入って緑や赤や紫や青になったものだ。

ミャンマー産氷種ひすい

岩石である限り、いろいろなものが混じっていて当然である。
そういう石は、「宝石」として家宝にするようなものではない。
宝石としての価値は、無いと思っていただければ間違いないと思う。

ただ、日本には自然石を楽しむ文化がある。庭石や、盆石にして風景を愛でるのである。
盆栽に加えてある石もよく目にする。

たとえ世界的なレベルで見れば、「石」にしか過ぎないものであっても。

だから、翡翠の判別にはそれほどこだわらなくてもよい。
どれも、それほど価値に違いはない。

価値にこだわって拾うのは、石のほんとうの姿を見失うような気がする。
(どこかで同じようなことを書いた気がする…)

2020年3月19日木曜日

天然石を削らない理由

さまざまなタイプのひすい

海やけの入ったもの、表面が滑らかでないものなどもあり、判別に苦しむ

私は、ひすいを磨かない。なぜなら、どんなに磨いたとしても、それは自然の研磨にはかなわない、とおもっているからだ。
日本人は古来からこの石を「勾玉」などに加工して身に着けてきた。
磨くことによって、さらに美しくなることは確かだとは思う。
それを否定する気はさらさらない。

しかし、私にはどうしてもできない。それは以下の理由による。

■ 糸魚川翡翠は、品質が高くないので磨いても美しくならない

前にも書いたが、糸魚川ひすいは品質が良くない。石目が多く、割れやすいため、加工には向かない。
よい品質の石が採取できた縄文時代は別として、今拾える石は品質が悪い。
石目の少ないミャンマー産ひすいのほうが、断然加工に向いている。

■ そもそも大自然の造形そのものに価値があるのではないか?

海岸の石は、何千年、何万年の歳月をかけて、波が研磨したものである。
そのこと自体が価値なのであり、それを削ってしまうことは、その価値を無くしてしまうことになりかねない。
ごつごつした岩石を眺めること、そのことによってパワーをもらえることがある。
たとえそれが、何の価値もない石ころであったとしても。
それぞれの石が刻んできた「歴史」を尊重し、畏敬の念を持って鑑賞したい。
「無為」は真実に近い。人為というのはより美しくしたい、などの「欲望」を含むからだ。

■ 売るつもりがない

それぞれの石は、それぞれ価値がつけられない。
どんなつまらない石ころにでも、その「存在」自体に価値があるものだ。
それに対して、人間が金銭価値をつけることは、あさましいような気がするのだ。
また、石を拾えた、ということは何かの縁があって、拾えたのである。
石ころとの「きずな」を大切にしたいと思う。

2020年3月18日水曜日

石の検討 やはりひすいの判別は難易度が極めて高い

石拾いの後は、毎回石の検討をする楽しみがある。
一発でひすいと分かる石は良いが、ロディン岩やキツネ石と判別しなければならない石がほとんどなので。
見た目はそうでなくても、中には何か入っていそうな石も多い。
悩ましいところだが、そういう悩みも、石拾いの醍醐味ではないか。



判別が難しい石。真ん中の大きな石はロディン岩のようで、表面はざらざら。左下は灰色ひすいのようにも見えるが、結晶が見えないので違うかも。右下は含有率の低いひすいではないかと思っている。

ロディン岩のように見える石も、一部分にはひすい色に光を通す場所もある。

石英の色の通り方ではないが、ひすい結晶が見えないタイプ。

含有率が低いと思われるタイプは、ほんのりと緑色で、透過色もごく薄い。
こういう、ひすいかどうか分からないタイプが、いちばん悩ましい。
ほとんどが違う鉱物か、きつね石なんだと思うけれども。

ひすいの判別は、本当に難しい。
一概に「これが正解だ」とは言えない部分がある。

よく結晶があることが特徴だと言われるが、海岸は結晶のある鉱物だらけだ。
ひすい結晶の大きさも、最初は小さいと思っていたが、どうやらいろいろな大きさのタイプが存在するようなのである。
ひすいが重いのは確かだが、ひすい以外にも比重の高い鉱物はごまんとある。

こればかりは、相当の経験を積まなければ、正解には至らないのではないか、と痛感している。
非常に難解で奥の深い世界だ。

ひすいが一つの鉱物で構成されているルビーやサファイヤなどのコランダムみたいなものであれば、判別も容易だ。ましてやコランダムはブラックライトに反応する。
ひすいに対しては、これらの判別法は通用しない。

2020年3月17日火曜日

子不知海岸 やっぱり行きたくなって行ってきた。

新型コロナは、感染の危険がある条件が分かってきたので、そういう場所に近寄らなければ良い、らしい。
ひすい拾いは、石浜をぶらぶら歩くだけだ。密集した場所でもないし、ましてや閉鎖空間でもない。
おまけにひすい拾いは、無言でやる暗黙のルールがある。
挨拶はふつうしない。ならば大丈夫だよね?安倍さんも、「緊急事態を出すほどではない」と言っていたしね!

ならば、さっそくひすい海岸へ!GO!しばらく行っていなかったので、すごくうきうきしていた!

今日は天気が悪く、いつも以上に波も高かった。しかし他にもヒスイハンターがたくさん。
コロナでどこにも出かけられない人々が結構おられたのかもしれない。

まずは今日の成果。大きな緑がひとつ。ラベンダー色をした不明な石。灰色と緑。
ラベンダー色の石に光を通してみる。これがひすいなのか、どうかは自信がない。紫色の石英もあるという。



品質はよくないとおもう緑。

これは形、色、表面の結晶から、ひすいだと思う。

今日の海岸の様子。

子不知のところで、昼食。ものすごい波が襲い掛かる。足が震えるぐらいの波である。



昼食を終えて

北アルプスからそのまま続く花崗岩の岩盤。絶壁である。ここをへつりながら行く。

波が荒い。このあと波を避けるために転んだ。頭から砂の中に突っ込んで難を逃れる。

2020年3月13日金曜日

人間の無力さ



わたしは大学、大学院時代にインド思想や仏教を専攻していた。
今でも、研究というものはしていないものの、インド思想や仏教の書物は頻繁に読むのである。

インドで最大の哲学者は、シャンカラという人物である。彼は仏教の影響は受けているものの、インド土着の宗教であるヒンドゥー教の代表的な思想家である。現代インドの90%以上を占めるヒンドゥー教は、何らかの形で彼の思想を受け継いでいる。

シャンカラは独創的な哲学者というよりはむしろ、古代の書物に優れた注釈を著したことで大いに影響力があったのである。
仏教に対しては、積極的にその説を批判し、論破しようと試みている。

シャンカラの思想の特徴は「不二一元論」という言葉で表される。
簡単にいえば「宇宙とわたしという存在は、一体で区別がつかない」という説である。
では、なぜ「わたしとあなた」などの二元対立が起こるのか、というと、我々が無知だからである、と断言する。

シャンカラによれば、私たちが見るもの、聞くもの、つまり感覚するもの全てが「もともと宇宙と一体である」ということを知らないことよって、幻のように現れたものだという。
幻であることを知らないので、それに対して「行為」を起こし、苦しむのである。

なので、人生の苦しみをなくすには、我々が大自然と一体であることを悟り、いかなる「行為」も放棄することが必要だという。
そのためには、決して感覚も、認識もできないが、これを「悟る」ことが必要である。
これは「ブラフマン(梵)」の知識と呼ばれる。それは永遠不変の神であり、決して変化することが無い「宇宙の理法」そのものである。

仏教との大きな違いは、この「ブラフマン」を認めるか、どうかということと、「行為」に対する考え方である。

仏教は「無我」を唱えるので、いかなる永遠不変の実体も認めない。
また、「知識」ではなくて「行為」によって真理を知ることができる、とする点が違う。

まあ、仏教もヒンドゥー教も同じインドを起源とする思想なので、基本的にはお互いに影響を与え合い、そのうちに渾然一体となっていくのではあるが。

いずれにせよ、「宇宙の理法」という大きなものの中に、人間存在が含まれているとする点では同じである。
その前では、人間の小賢しい知識は、ゴミみたいなものにすぎない。

新型コロナウイルスで世間は大騒ぎであるが、人間にはこういうウイルスがなぜ生まれてくるのか、とか、どうして伝染するのか、とか、どうやったら防げるのか、という知識すら無い。科学者が必死になって問題に取り組んでいるが、なかなか簡単にはいかない。
それは、この人間社会自体が大自然の中の、いささか間違った方向に進みつつあるコロニーにすぎないことを、示しているのではないか。

前にもどこかで書いたことがあるが「自然と人間」の分断は、人間の傲慢であり、自分の立っている土台を忘れた結果の誤った認識である。

人間は大自然の理法の前には無力なのである。

2020年3月10日火曜日

山登りを休んでいる時に見えるもの


コロナの影響で、何もしない時間があるというのは、不思議な気持ちでもある。
今までは、時間があれば山に行くか、ひすい拾いに行っていたわけであるから。

それ以外にゆっくり本を読んでみるとか、自分の身の回りのことを考えてみるとか、そういう時間はなかったように思う。
だが、本来趣味というのは、そういうものなのかな?

一つの事に打ち込む時間というのは、確かに楽しく有意義な時間ではあるが、それ以外に関心が行かなくなっている時間でもあるのだ。

自分の内面を見つめなおす時間を与えられた、と思えば山に行けないことの苦痛は和らぐ。
普段見落としがちであった事に気づくのも、こういう機会ならではである。

ひとつひとつの物事を、改めて、落ち着いて見直せる。

2020年3月9日月曜日

不要な外出は控えている


新型コロナウイルスの感染が増え続けている。
現時点でクルーズ船を減算して500名近く、亡くなった方は7名。
クルーズ船では700名近く、亡くなった方は7名。

日々感染者が増えている状況であり、そう簡単に終息するとは思えない状況になってきた。

こんな状況で登山やらひすい拾いなどをしても、楽しめないため、しばらく休止することにした。
登山を始めてから7年の歳月が経過した。その間、1か月に一度はどこかの山に登ることにしていたのに。

今後どうなるかわからない。ずっと続けられるのか、それとも、このまま終わるのか…

今はただ、早期の終息を願うばかりである。

2020年3月6日金曜日

矛盾だらけ

サンプルボックス。様々な種類の石(ひすい以外。キツネ石が多い)

ザクロ石?

新型コロナウイルスをめぐる情報は、複雑極まりない。
国は全国一律に学校の休校を要請。

しかし一方でライブハウスやパチンコ店はやっていたりする。
これらを止めると、国の経済が成り立たないのだろうか?
学校は休んでも、経済には影響が出ないというのだろうか?。

今日、密閉された空間での立食パーティーの様子を、某国営放送が放映していたのを見て、完全に何が正しいのか、わからなくなってしまった。

地域を活性化するための、地酒を飲む施設の様子。皆マスクもせず、会話している。
今の時期に、こんなものを放送することは、不謹慎ではないのか?

今はだれもがそれをしたくても遠慮しているのだ。不要不急の集まりをしているような状況ではないのだ。
それなのに、中止しようともしない。

これを見て、私は確信したのである。国が緊急事態を宣言しないかぎり、誰も動かないであろう。それが公営放送であっても。

優先度を考えれば、経済を止めるわけにはいかない。
しかし、これ以上の感染を食い止めなければ、オリンピックもできない。海外から入国拒否される。
そうなれば日本は何十兆円もの負債を抱える。
ただでさえ、原発の後始末に金がかかるというのに。

さまざまな矛盾、混乱が、一気に噴き出してきている。
ここは何を優先するかを考えてもらわなくてはならない。
もう瀬戸際なのだ。

混乱してきたので、石を眺めて気持ちを落ち着けることにした。

昔拾ってきた「コレクションボックス」を開く。ここには判別不能な石を集めてある。
「わからないもの」を、集めてある。

これらの石がどんな価値を持つのか、まったくわからない。
毒なのか、薬なのかすらわからない。
まったくどこにでもある「石ころ」である可能性が一番高いのではあるが。





2020年3月5日木曜日

石の力

ひすいの色は、生命に活力を与えてくれる

新型コロナウイルスの流行で、なんと花崗岩が殺菌作用があるというデマが流れる事態になっている。
このために、オークションサイトでは花崗岩が高値で取引されているそうな。
マスクも売り切れ、トイレットペーパーもティッシュペーパーも、アルコールも、どこに行っても無い。
新型コロナウイルスはまだ実態がよくわからない未知のウイルスであるために、みな不安を抱いている。

これらの「モノ」は、ウイルス感染を防いでくれるものである、と人々が思っているからこそ、皆が殺到し、買い占める。
しかしこれらの「モノ」は、感染防止を「助ける」だけであって、100%防いでくれるものではない。
それでも、人々はこれらのものを求める。だれでも死にたくないと思っているからだ。

冷静になって考えてみるに、病気から快復するために必要なのは、自己の免疫力の方である。
「モノ」は、免疫力によってウイルスを撃退するための助けになるに過ぎない。

だとすれば、免疫力こそが大切なのではないだろうか?

免疫力を上げるには、ストレスをなるべく受けないこと、ゆっくり休むこと、十分な栄養を取ること、十分な睡眠を取ることが必要である。

これによってこそ、体は自然にウイルスを撃退してくれるのである。

こういうときは落ち着こう。身と心のありかたを正常にし、見直し、安定させることによって、本来の力が発揮できるはずではないだろうか?

我々の体には、何十億年もの間生き残ってきた遺伝子が組み込まれている。
この力を、信じてみようではないか。

ひすいが5億年もの間光輝いているように、私たちの体にも強い力が宿っている。
どんな困難にも負けず、残ってきた遺伝子が受け継がれている。
今まで生き残ってきたのは、それらのおかげである。
もちろん、たくさんの犠牲を払いながら。