成長中の雪庇 |
「美しいものを作る」というのは、美術とかデザインの永遠の目標だろう。
しかし、人間の力には限界があって、たとえば蟻やハエ一匹ですら、そのままのものを1からデザインして動かすということは、ほぼ不可能である。
まず、蟻やハエは自律的に栄養を補給し、「放っておいても」生命活動を維持することができる。
しかし、これはロボットにはできないこと。
そして、常に自分自身を再組織し、古いものを排泄し、新しいものを自分の体で作り出し、恒常に保とうとする。
これも、人工的に作られたロボットにはできないことだ。
自然の美というのは、そういう「生命維持の機能」を含んだ美しさであり、それらしいものをオブジェとして置いても、代わりはできないのだ。
今西錦司博士は『生物の世界』の中で、自にとっての環境を「その生物が認識し同化した世界である」と言っている。生物と環境は一体であり、環境の変化によって選択されるわけではなく、生命主体側がその環境と「動的な」関係を持ちながら、存在する。
もしそうであれば、山においては雪も生命であるし、風も生命である、ということになるかもしれない。
環境ひとつひとつが、生命の一部であり、お互いに関係しながら生きているのではないか、と思う。
山ではその関係が非常にうまくいっているので、すべてのものが完璧とも言える造形になるのかもしれない。
人間が科学で作り上げる世界は、非常にアンバランスに見える。それらに癒しを感じられないのは、しかたないのかもしれない。
また、芸術家があえて作品にそのアンバランスさを強調する場合もあるのは、そのせいかもしれない。
兎にも角にも、山を歩いていると、そういう「人間の手の加わらない」美しい造形を鑑賞することができる。
しかしながら、写真に写るのはその影であり、目の前でそのものに対峙しながら鑑賞するのとはだいぶ違ってくる。
それらは人間に「放置」された場所で作られたものだ。
その造形は、どんな写真よりも、どんな芸術作品よりも美しい。
有史以来、ギリシャや中国の古代文明の時代から、人間はその造形を真似て作ろうとしてきたけれども、成功していないと思う。
多分人間にはそれを作ることが不可能なのである。