2021年10月28日木曜日

きれいは自分で決めたら良い



私は石を拾っても、鑑定してもらったことはない。
その石が「科学的に」どういう組成であったとしても、自分が「美しい」と思って拾った石だから。
その事実の方が、科学的にうんぬんよりも、大切なことだと思っている。
5000年も前に、糸魚川でヒスイを拾い、加工した縄文人はもちろん「科学」は知らなかった。
それでも、あれほど美しい勾玉や大珠の加工品を残している。
それは「色」「形」「素材」すべてを総合して「美しい」ものを作ろうとしたからだと思う。ひすいはたまたま彼らの美的感覚を刺激したに過ぎない、と思う。
実際、少し時代が下ると、ヒスイだけでなく、碧玉(チャート)や玻璃(水晶、または人工的に作られたガラス、天然ガラス)のものも作られるようになった。
これは「素材」そのものより「それが美しいか、どうか」の方が大切だったことを示しているのではないか?

だから、石の美しさは自分がその石に対して、どう思ったか、がすべてだと思う。
ひすいにしてもただ「素材」がひすいであるだけでは、何の意味もないだろう。
それが「美」をもっていなければ。
そういう「感覚」を大切にしたいからこそ、私は拾った石をわざわざ鑑定してもらったことはない。
科学的な成分分析は、また別の分野の話になる。
その場合「糸魚川石」やら「新潟石」などの、この地方にしか存在しない希少鉱物の方が、ひすいよりはるかに価値が高い、ということになってくるのではないだろうか?
ひすいは科学的にはそんなに希少性はない。