2023年5月29日月曜日

オパール遊色 消える

遊色していたオパール。
空気中に置いて観察してみた。
採取後、まさに7日目で白いただの石に等しいぐらいに、遊色がなくなってしまった。
しかも宮沢賢治の『貝の火』に書いてあった通り、遊色が無くなる前には、一時的に遊色が盛んになりすらした。宮沢賢治の観察眼には恐れ入る。

すっかり消えてわずかに赤い閃光が見えるだけになってしまった。緑の遊色はもはやない。

想像でしかないのだが『貝の火』は、オパールを観察しながら、その変化の記録を下書きに書かれたのではないだろうか?
当時賢治は父親と「国柱会」入会をめぐって意見が対立した。
時には激しい口論に発展することもあったようだ。
「国柱会」は日蓮宗系の国家主義的傾向の強い宗教団体。
父親の主義とは合わなかった。
賢治の死後、宮沢家は日蓮宗に改宗するのだが、それまでに激しい「父子の対立」があったことは想像に難くない。
その片鱗が『貝の火』には見え隠れしている。

『貝の火』のラストにフクロウが「たった6日だったな、ホッホ」と、権力のむなしさを嘲笑するかのような描写が見える。
当時権力者であった岩手の名家、宮沢家の当主であった父親を、遠回しに批判しているようにも感じる。
賢治本人の、言うに言われぬ複雑な感情が、変化してやまないオパールに投影されたものだったのかもしれない。それゆえに、この物語は単純な物語ではない複雑さを持っているのではないだろうか? 


しかし宮沢賢治が宮沢賢治たりえたのは、やはり父親の権力がなければ不可能だった一面もある、と考えざるを得ない。植物学者牧野富太郎が、植物学者足りえたのも、高知の造り酒屋の莫大な資金の後ろ盾が無ければ、とても不可能であったように。
『貝の火』は若いときの作品なので、そこまで考えが及んでいない。
確かにすばらしい童話で、寓意に富んだものであるが、彼の地盤というか、それを支えている「大地」にまでは、まだ考えが及んでいない。
その後、賢治は精力的に農業指導をして、自らの知識を農業生産向上のために捧げたのではあるが。

6日目以降、実際石は砕け散らない。
「オパレッセンス」と表現される、なんとも言えない白や水色の半透明の色合いが残る。
これは長い間かかって、最後には透明な石英や玉髄という「本来の姿」になっていく。

派手な光は失われても、本質は失われない。