2021年8月23日月曜日

多様性、という言葉はあまり好きでない

 


「多様性(diversity)」は最近流行ってきた概念だが、SDGs(持続可能な開発目標)とともによくわからない概念である。

そもそも、自然というのはもともと多様な現象である。
それを数値の下に平等に取り扱って、それに無理やりに合わせてきたのが今の社会の姿である。

「多様」の反対概念は「一様」(similarity)であり、みんな同じ法則の下に存在する、とする捉え方である。
「多様性社会」の理念は、今までは「一様性」の社会を構築してきた人類が、それぞれ違った価値観や存在をお互いに認め、「ともに」生きていきましょう、という考え方である。
今までの歴史では「一様性」が極端に求められた結果、「同じでないものは排除しよう」という考え方につながり、その中で全体主義が登場してきた。全体主義の世界では、全体の価値観に合わないものは認められない。
「多様性社会の実現」はこれに反対する、要するに「反全体主義」の考え方である。

しかしながらこのように「多様」という概念を前面に出してしまうと、一種の「イデオロギー」の様相を呈してくる。
したがって「多様性を認められない社会は悪だ」となってしまう。
「多様性」を認められない社会、とは例えばイスラーム原理主義や、中国共産党の支配しているような社会である。
そのような社会とは別の「多様性」を認める社会、とは民主主義国家、ということになる。
「多様性」を前面に出しすぎると、「多様という一様」を強要する社会になってしまう。
それは結局「多様性」を認めていない事になり、自己矛盾する。

本来はそうではなくて、もともとわれわれの存在というのは、何一つ同じではなく、例えば海岸の石ころのように、どれをとっても同じでない、のではないだろうか。
かといって、石としての「一様な」性質が無いわけでもない。

ほんとうに「ありのまま」の姿というものは、多様や一様を離れたものではないか?
だから「多様性」という言葉は、プロパガンダ的で好きではない。

このような概念を作って、何か一つの方向にむかわせることが、本当に良いのだろうか?
良く分からないのである。
むしろ複雑なまま、放置しておくのが良いような気もするのだが。