純粋でないほうが面白い |
ひすいは純粋な形で自然界に存在することはまれである。
たいてい、蛇紋岩や曹長岩などが混じっている。エジリン輝石、コスモクロア輝石、オンファス輝石などはひすいの変種であるが、これも純粋とは言えない。
一方のダイヤモンドは”純粋な”炭素の結晶である。
ダイヤモンドは一番硬い物質であるが、強い衝撃を加えると、簡単に割れてしまう。
一方のひすいはハンマーで思い切り叩いても割れることは無い。
これはひすいが、粘り強い硬さ(靭性)をもっているからだ。
ひすいは細かい結晶があつまった集合体で、単結晶のものはめったに見られない。
また、その間隙にさまざまな不純物を含んでいる。
これらの要素ががひすいの強さを作っているのだ。
ちょうどコンクリートに、鉄筋や砂利が入って頑丈さを作っているように。
何でも集まっているものは強い。
人間の知識でも、いろいろな知識が集合していると、柔軟性があり、いろいろな状況に対処できるものだ。
何でも、状況に合わせてパッチワークのように作り上げ、生活の用を足すアマゾンの先住民は、現代人と比べてたくましく見える。
科学なる一つの方法でしか対処できない現代人は、状況を分析してその場その場で臨機応変の対応をすることが出来にくいように思う。
野球にしてもそうだ。ひとりひとりの選手は無名でも、有名選手をかき集めて作ったチームに楽に勝つことがある。
それは、ひとりひとりの力が強くても、その「関係」の力が無いとどうしようもない、ということを示している。
『野生の思考』では、「ブリコラージュ」(器用仕事)のすばらしさが強調されている。
何かの役に立てるため、分析的知性を最大限に使い、その状況に最適なものを生み出す能力が人間には備わっている。
「科学理論による設計」によって作られるものより、もっと直接的に役に立つものをその場で作ってしまうのである。
これは「いいかげん」である、として今までの世界では忌み嫌われる傾向があった。
科学の作るもののほうが、エレガントで知性的だ、という理由で。
これは、とてもつまらないことではないか?
物を食べるのに「銀のスプーン」を使う必要は必ずしもない。
そこら辺に落ちている空き缶を石でたたいて作ったスプーンでも、物を食べることは出来るのであるから。
どちらも「物を食べる」ことには変わりはない。
ただ、その「形」が違うだけである。