2020年2月23日日曜日

どこにも出られない

ひすいにも行けない


新型コロナではないと思われるものの、先日から風邪のような症状が出た。
こういう場合には、外出を控えるように、という政府からのお達しが出ているので、おとなしくしている。
現在は回復しているが、まだ要注意だ。熱は出ないものの、すっきりしない感じが残っている。

今度の新型ウイルスはかなり厄介そうだ。死亡率14%以上もあったSARSの亜種(SARS-CoV-2)であることは、名前からも明らかだ。
SARSはだいだい中国国内で感染が止まったが、今回のウイルスは世界中で感染を広げている。

日本でも100名以上の感染者が出ている。感染経路が分からない「市内感染」の状態に移りつつあるので、厳重な警戒が必要。
こういう状況になると、人込みは避け、なるべく家の中にとどまっているのが吉だ。

アルコール消毒は有効だそうだ。しかしながら、完全に感染を防ぐことはできない。

ふと思ったのだがなぜウイルスは人間を病気にさせ、殺そうとするのか?
やつらは細胞に侵入し、遺伝子を組み替えて自分を複製するだけの存在だ。

RNAの配列に含まれる遺伝情報を増やそうとしているのだ。その意図、目的はウイルスに聞いてみなければわからないが、いったい何なのだろう?

すべてが大自然の力によって動いているとすれば、ウイルスが存在する目的は神秘ですらある。

また、このウイルスが研究施設から漏れたのではないか、という説(バイオハザード説)もあるが、この場合は人間が敵国をやっつけるために開発した兵器が意図せずに漏れた、ということになるだろう。
しかし仮にそうであっても、敵国を滅ぼそうと意図した人間の意図は、どこから出てくるのか?

人間は嫌な相手を憎み、排除したいと思う、悲しい存在だ。
それゆえ、有史以来、人間の間で戦争が絶えたことはない。

ある人間が、ある人間をいやだと思い、嫌い、存在をなくしたいと思うことが、なぜ起こるのか?

お釈迦様は「恨みによって恨みに報いていたのでは、永遠に恨みのなくなることはない。恨みを忘れてこそ止む。これは永遠の真実である」と言われている。

しかし人間は、恨みを忘れることが出来ていない。
これはなぜなのか?
わからない。

2020年2月17日月曜日

疫病



中国で発生した「新型コロナウイルス 2019-nCoV」。

厚生労働省ではもはや水際では抑えきれないと判断したのか、持病がある人などは人込みを避けるようにという通達が出ていたりしている。

今までに1000人以上の人が亡くなっている。感染すると危険だ。
死亡率はインフルエンザより低いと言われているが、これは現時点での統計から言われているだけである。
今後どの程度広がりを見せるのか、終息に向かうにはどの程度の時間がかかるのか、まったく見えてこない。

こんな話を聞くと、どうしても外出は控えがちになってしまう。

奈良時代には日本に大陸から天然痘が伝来し、物部氏が仏教を導入したための「神の怒り」のせいにして蘇我氏と争った、という話がある。
また奈良の大仏も、この「疫病退散」の祈りを込めて建立されたものだ。

大正時代には鳥インフルエンザ、終戦後にはチフスやコレラが流行したこともある。

人類はずっと昔から、これらの疫病と戦ってきた。
「疫病の発生は、大自然の人間に対する警告、あるいは罰」という見方もずっと昔からある。
なぜ、ウイルスが存在するのか、は理由を考えてみても、まったくわからない。
どうしてこのようなものが存在するのか?

とにかく、「疫病」が日本に入った以上、これにかからないように予防することが喫緊の課題。

人込み、人の集まる場所は避ける、行った場合は手洗い、アルコール消毒を欠かさないということが推奨されている。

ウイルスが原因の疾患にはマスクはあまり効果がない。マスクの網目をウイルスが通るからだ。
マスクでは、防ぎきれない。

このウイルスに関しては、最初から鼻水が出ることは少なく、咳や微熱から始まるらしい。

新型コロナウイルスばかりが注目されているが、その他にもインフルエンザ、麻疹なども流行しているので、気を付けなければならない。

ウイルス性疾患に効果があるなあ、と感じているのは「アルコール消毒」。それと、体力増進だ。

酒を飲むのは体に悪い、と言われているが、酒を飲むようになってからというもの、あまり風邪をひかなくなったような気がする。
飲酒がウイルスを殺しているのだろうか?
単に山登りをするようになって、抵抗力が高くなっているのか?

2020年2月9日日曜日

別れ


今日、親しくお付き合いさせて頂いた方の葬儀に行ってきた。
あまりにも若すぎる死であった。
その方の、忌の際にも立ち会った。人間、亡くなる時には、まさに波が引くように、潮が満ちるように逝ってしまわれるものだ。
あっという間の、出来事であった。

その儚さ、無常の速さを改めて感じた。

今、冷静になってよく考えてみれば、人生は潮の満ち引き、海の波のようなものだ。
少しも停止ぜず、動き続けている。

生きている人間だけが動いているのではなく、大自然の道理そのものが、一瞬も滞ることなく、動き続けている。

私たちはそれを、生きてる、とか、死んでいる、とか勝手に目印をつけてあれこれ考えているが、よく考えてみれば、それらは私たちの心が生み出しているものではないだろうか?

大自然の大きな流れの中に、一体となり、厳粛なその道理のままであれば、どんな心があるであろうか?
それぞれが、みな尊き存在。

海岸の石ころのように、何ひとつ同じもののない存在。

石ころは、何かを考えてそうなったわけではない。

全ては、おおきな流れの中にある。
その中に、生きているとか、死んでいるとかの区別が何かあるであろうか?

大自然、大宇宙は一つの生命体である。

ただ、ひたすらに自分の勤めを為せ。自分の与えられた義務、仕事を熱心に為せば、それで良いのだ。

それぞれが、それぞれ尊い。そうすることが、一番幸せなのではないだろうか?

2020年2月4日火曜日

高落場山は雪不足のため、登山不能

毎年登る高落場山の下見に行った。
予想通り、雪が無く、今後も登山不能と判断。
2月に雪が無いのは、約7年間通っているが、初めてのことである。

駐車場から。10cmほどしか雪が無い。
いつもならたくさんのトレースがあるスノーステーション裏。ほぼ、雪が無い。これでは藪漕ぎして行くぐらいしかできない。
五箇山トンネル入り口。いかに雪が無いか、わかるであろう。
ススキまで見えている。これほどの異常気象は経験したことがない。
たいらスキー場方面も見てくることにした。
たいらスキー場の周りはすこしある。
たいらスキー場はばっちり営業していた。たくさんのスキーヤー
リフト動いてます。
それでも積雪は1mもないだろう
たいらスキー場を後にする。途中から人形山が見えるが、ここはけっこうな積雪量に見える。
人形山アップ
利賀の「山の神峠」によってみることにした。
ここも雪が10cmほどか。少し先まで行ってみるが、今日は登山装備はしていないので、途中までで引き返す。
帰り道に「脇谷の水」を飲んできた
高峰方面も、ほとんど雪が無い。このまま春になるとすれば、記録的な暖冬ということになるのだろう。夏が恐ろしいな。どれだけ暑くなるんだろう・・・

2020年2月3日月曜日

ひすいかどうか迷う

拾ってきた石の検討。続き。
拾った石の中には、ひすいと判断してもよいか、迷う石が多くある。
ひすいの中には、光の透過がよくないものも多くあるという。

例えば、下の写真ような石がそうだ。表面のキラキラした結晶がある石や、ひすいらしい色をしていて、ハンマーで叩いてもびくともしない重い石である。

インターネットで検索すれば、このような石はひすいである、としてある場合もある。
しかし、厳密に言えばおそらく「ひすいを含んだ岩石」なのであろう。
こういう石は海岸では結構拾える、と思う。

ある意味「ありふれた石」である。

あまり美しいとはいえないものの、サンプルとしてはよいと思う。


手のひら大の大きさの石。両方とも光を通さないが、ひすいの特徴がある。こういう石は、どう判断したらよいのだろうか?
ひすいが表面を覆っているように見える。母岩は角閃石か何かか?
これもキラキラした石が表面を覆っている。

2020年2月2日日曜日

宝石質のひすいは非常に少ない


宝石質と言われるひすいには、グレードがある。
やはり良いひすいは、透明度が高くなくてはならない。
ミャンマーのひすいには「氷種」というものがあり、まるで氷のように混じりけがなく、透明である。
このような石はレア中のレアであり、めったにお目にかかれるものではない。
純粋なひすいの色は無色透明であるが、特に喜ばれるのは、緑で透明なものである。
これはロウカンひすいと呼ばれ、良いものになると数千万円で取引されている。
糸魚川の海岸で拾える石の中には、まず無いと思われる。
昔は拾えたようであるが、今は取りつくされている。
したがって現在見つかる石はどれも濁った色のものばかりである。
これはほとんど宝石としての評価は無い。

緑色は、われわれ東洋人にとって特別な色だ。
若葉の色、新緑の色である。生命の躍動する色である。
ひすいが貴いのは、やはりこのみどり色が特別な色であるからである。
永遠の若さ、生命力を、この石は表している。
5億年もの昔から、この色は変わらない。
大昔から、決して年をとらない石なのだ。

純粋な緑色をした石は、まず見つからない。
そんな石にいつか出会ってみたい、と思って海岸に通い続けているのかもしれない。