岩山も雨や雪や風が削った姿である 2019/11/5 西穂高岳 |
特に四書(『大学』『論語』』『孟子』『中庸』)は、幼児の頃から教えられた。日本人で文字を読めない人が少なかったのは、これの恩恵である。
この中で最後に学ぶべき書とされていた書物が『中庸』であり、これは最も深遠な道理を解説する。
四書を貫くものは、最初から最後まで「誠」の一文字である。
「誠」とは天地自然の働きであり、その純粋一筋なありかたである。
人間もこのありかたに学べば、豊かで充実した人生を送ることができる、というのである。
そもそも勉強をする目的は、この天地の道理を見て、自分の持ち前を自覚し、それに従って生きる、ということである。
現在の教育では、勉強するのは知識や利益を得るための手段だ、とする考えかたが蔓延している。
しかし、利益はそれ自体、人生の意味を教えてくれるものではない。
一時的な快楽を与えてくれるものでしかない。
昔の人はそのように思っていなかったのであろう。天地自然の中で、自分の持ち前を自覚し、それを実現してゆくこと、それが勉強する目的であったのだ。
登山をするにしても、ただ登る、というのではなく、天地の働きを見に行くのだ、と思って登ると、新たな視点が開けてくるような気がした。
最近、登山に対する意欲が削がれていたが、『中庸』の一文に出会い、また新たな意欲が湧いてきたような気がした。
天地自然のあり方は、ただの一言でいい尽くすことができる。そのありようは〔多様にみえるけれども実は〕純粋一筋〔に誠実〕であるから、だからこそはかり知れないほど多くの物を次ぎ次ぎと生成しているのだ。天地自然のあり方は、ひろびろとしている、上下に深厚である、高々としている、光明にあふれている、無限にはるかである、永遠に持続する。そもそもあの大空は、この目の前のきらきらした輝きが集まったものである。しかしそれが無限に多く集まっ〔て大空になっ〕た段階では、太陽や月や星もそこにつながれ、下界の万物もそれにおおわれ育てられている。そもそもこの大地は、ただのひとつまみの土くれが集まったものである。しかしそれが広く集まっ〔て大地となっ〕た段階では、華山や嶽山のような大山を軽々とその上に載せ、黄河や東海のような大水をすっぽりとその中に収容して、下界の万物はすべてそこに載せられている。そもそもあの山は、ただのひとにぎりの小さな石ころが集まったものである。しかしそれが広く大きく集まっ〔て山となっ〕た段階では、そこに草木が生え、鳥獣がすみ、金・銀のような貴重な鉱物も埋蔵される。そもそもあの川は、ただのひとすくいの小量の水が集まったものである。しかしそれがはかり知れないほどたくさん集まっ〔て川とも海ともなっ〕た段階では、そこに黿・蛟・竜・魚・鼈などが生み出され、真珠や珊瑚のような貴重な財物もたくさんふえることになる。『詩経』には「天の命は、ああ深遠で〔いつまでも〕止むときがない」とうたわれている。思うに〔この詩句は〕天のいかにも天らしい真髄を説明したものである。また「ああ立派に光り輝くことよ、文王の徳の純一は」ともうたわれている。思うに〔この詩句は〕文王のいかにも文王らしい真髄を説明したものである。この純一の徳も〔天地自然と同じで、完全な誠のはたらきとして〕永続して止まるときがないのである。
金谷 治. 大学・中庸 (Japanese Edition) (Kindle の位置No.5158-5206). Kindle 版.