2019年12月28日土曜日

真実は変わる


現代に何をとち狂ったことを書くのだ、と思われるかもしれないが、天動説(地球を中心に宇宙が運動しているという説)は、13世紀ごろのヨーロッパでは科学的真実であった。また、中国やインドなどでも天動説は支持されていた。『アビダルマ・コーシャ(阿毘達磨倶舎論)』では、須弥山を世界の中心に据えた天動説が説かれていた。
世界の中心にはヒマラヤより高い山があり、その周りを太陽と月が運動しているのだ、という世界観であった。

今日では、宇宙には無数の銀河があり、太陽はそれを構成する、いち恒星にすぎず、銀河の中心にはブラックホールがあって、その強い重力に影響されて銀河が渦を巻くように回転していることが知られている。
渦を巻いている、ということは、最後にはわれわれの世界もそこに吸い込まれるのだろうか?ブラックホールの中がどうなっているのか、誰も知ることはできない。

私はブラックホールが宇宙に開いた「穴」のようなもので、そこから「外」に向かって何かが出ているのではないだろうか?と思っている。
銀河の形は、まるで風呂の水を流す時に出来る渦巻きのようである。
恒星などは、もしかしたら宇宙の「ゴミ」みたいなものかもしれない。

天動説を採用した、と言われるアリストテレスの書いた『自然学』という書物を先日読み終わった。
アリストテレスは古代ギリシアの数学者エウドクソスの同心天球仮説を自らの自然学に取り入れた、とされるが、『自然学』の中には、それだと思われる説は直接には見当たらない。
『自然学』は「運動(あるいは変化)」についての研究である。

「運動」はつねに存在していなければならない、そうでないと、ものがある時は停止し、またある時は動くことを説明できない。
運動は無限に分割することのできる軌道を、ある点に向かって移動することである。
ただし、直線上でこの運動が行われるとなると、運動が「停止」する瞬間があることになり、したがって、運動が存在しない時間があることになる、という。またこの他にもさまざまな矛盾が起こり、運動をうまく説明できない。
また、時間が存在しないと、運動は起こらない。時間と運動はお互いに不可欠な要素である。
このような矛盾の生じない場所は、球や円などの両端が閉じた線や平面である。
これだと、運動という現象をうまく説明出来るのだという。

アリストテレスは、「他には動かされないで、他を動かす存在」が、運動の連鎖の一番最初になければならない、という。これは後世のスコラ哲学などでは「神」だとされるのであるが、アリストテレスの文章には明確にそのようには書かれていないように思う。
それは「分割されることのないものであり、部分のないものであり、どんな大きさももたないものである」と書かれているにすぎない。これは実体のないものではないだろうか?

現在でも宇宙には「重力特異点(どんな計算もできない特異な点)」というものが存在する、とされている。これが宇宙の最初に存在して、宇宙がここから膨張を始める、という宇宙観もある。現在の科学でも合理的に説明できないものは、たしかにあるのだ。

とにかく、アリストテレスは円運動に特別な意味を発見していたことから、おそらくは、地球が球面状であると思っていたのではないか、と思う。
月を観察して、月に裏側があるとする記述もあるからである。
だとすれば、地球も球体である、と考えていたとしても、(アリストテレスほどの人物なら)なんら不思議はないだろう。

アリストテレスの議論には、確かに誤りも多々ある。その最たるものが「重いものはより速く落下する」というものである。
ガリレオがピサの斜塔の上から、重さの異なる球を落として、これが間違いであることを証明した話は有名である。
その他にも様々な誤りがあり、それを「観測」によって訂正することによって、ヨーロッパの科学は発展してきたのである。

ただ、アリストテレスの主張は、彼が語る論理空間の中では間違っていない。
実際の観測結果(重力加速度は物体の質量に関係なく9.8m/sである)は、論理的誤りとはまた別の話である。
このような議論は「まちがっているから無意味」だとは思えない。

アリストテレスの『自然学』は、未だに解決されていない難問(宇宙に始まりがあるのか、とか、中心があるのか、とか、重力の本質とは一体なんなのだろうかということに対する問題)を思い出させてくれるという点で、熟読するに値する書物である。

インターネットの時代に、アリストテレスを読んでいるのか、と笑う人も多いだろうが、実は私たちは案外宇宙のことをよくわかっていない。
私たちは、それを真実だと信じているだけである。

もしかしたら、その真実がひっくり返ってしまうことがあるかもしれないのに。