2024年9月16日月曜日

自分の目を信じるしかないだろ

 

※ FMMを訪問してから、どうも石の見え方が変わってしまったようだ。自分で納得がいかないので、以下の駄文を書いてみた。

前にも「科学的(鉱物学的)石の見方」と「美術的石の見方」はちがう、ということを書いた。
上の石などは、科学的な観点からすれば翡翠輝石岩でまちがいないのであるが、美術的観点からすれば、ただの石ころである。
そもそも「宝石」とは、なぜ「宝石」なのであろうか?
昔の人たちはもちろんX線回折装置など持ち合わせているわけもなく、当然自らの感性にしたがって、自分たちが「美しい」と思った石を「宝石」として崇めたのである。
だから、古代日本人によって作られた勾玉の中には、硬玉ヒスイでないものも含まれている。
のちの時代になると、より色の映える「ジャスパー」や人工のガラスでさえ使われた。
彼らにとって関心があったのは「その石がどれだけ美しく見えるか」であった。
(古代の日本人にとっては、「青=緑」が生命そのものの色である、と感じられたようだ)
素材は二の次である。
以上の事から考えると、古代日本人は「美術的石の見方」をしていた、と言えるだろう。
私も古代日本人のように「本当に美しいもの」に出会えたらいいな、と思っている。
結局は自分の目を信じるしかないのだ。
FMMなどでやっているような「科学的分析」は、また別の話だ。それは石の「質」ではあっても、全体的な「本質」では決してない。

世間には「これはひすいだ」ということに、やたらこだわる人がいるようである。
そういう人々が駐車場に不法投棄したであろう石を見れば、たしかに石英、ロディン岩などばかりである。
しかしながら、美しい玉髄ですら捨てられていることがある。
石の見方を知らない人たちが、こういうことをしているのだろう、と思った。
ヒスイを拾ったあと、海岸で選別するのは良いと思うが、駐車場に捨てるのはやめましょう。
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人間に生命があり、ひとりひとり個性があるように、
石ひとつひとつにも、それぞれ個性がある。

だれもそれを再現できないことから、
石にも生命がある、ということができる。

人間は、自然に作られた砂一粒ですら、
科学の力だけで再現することはできない。

科学の力で何もかもが可能であるならば、
なぜクローン人間は、オリジナルの人間と同じ人間にならないかを説明してほしい。

石は複雑な「関係性」の中でその仮の姿を見せているのだ。
われわれは石と同等の存在である。

石の方が優れているわけでもないし、
我々の方が優れているわけでもない。