2021年12月23日木曜日

無謀なことはしない

 


たしかに怯えてばかりいては、何事も前に進めない。
しかし、大荒れの山に登るには、それなりのリスクもあるのだ。

何かをするときには、慎重さが肝心だ。

今まさに降雪している山に登るのは、最も危険な行為だ。
雪が降っている時は、表層雪崩の危険がある。
これはあらゆる雪崩の中で最もスピードが速く、破壊力もある。
BCをやる人たちなどは、パウダーを求めて、このような時にでも山に行くらしい。
敢えてその危険の中に飛び込んでいく。「今日みたいな条件の良い日は無い」と言いながら。

わたしは気が小さいので、とてもではないが真似は出来ない。

人生には危険を回避することが必要なことはないだろうか?
(アドラー流心理学に言わせればそれは「逃げ」でしかないことになるだろうが)
そこを超えなければ、人生における「向上」は無い、と言うだろう。

だからといって、我が身の実力も考えずに、その中に飛び込んで行って、結果として遭難し、救助のために多くの人々を危険にさらしたとしたら、それはただの「わがまま」ではないか。

「自分で好きで行ったんだから、放置しておけばよい」という人もいるが、遭難すれば誰かが救助に行かなければならない。日本の国ではそういうことに決まっているのだ。

アドラー流の心理学のいう事を、実践したければしてみると良い。
しかし、それは「自己責任」の範囲を超えて、周り中の人に迷惑を及ぼすこともあり得る。

2021年12月22日水曜日

自立心

 


わたしのような世代の人間は、自立心旺盛な若い人には理解されにくいだろうな。
わたしが生きてきた時代において、少なくとも私の過ごしてきた環境では「自分の意見を述べる」事がとっても難しく、上司に物申すことは組織に対する「反逆」に等しいことであった。

だが、今の時代は比較的自由にものが言えるらしい。
良い時代になった、と思う。
私の欠点を指摘してきた若い人は、私の生き方を「卑怯だ」と言う。

そうではないのだよ。

私だって、君たちの様に、自由にものを言えたら、と思う。
普段言えないからこそ、ブログなんか書いて、心の中に鬱積した「ほんとうに言いたかったこと」を書いているのだ。

昔の時代は、上司の言われたことに自分の意思を決して挟んではいけなかった。
そして、上司の思いを先取りではないが、その意図を読み取り、相談しながらものごとを進めていったものだよ。
「自分」というものは、そういう組織の一部であったのだ。

だが、今はそうではないらしい。
そうだとすれば、組織から離れて、やることが善だというのだろうか。

今の時代は、より自分の意思を出せるひと、の方が良いらしい。
まさに、むかし私が理不尽な環境の中で、「そうであってほしい」と思っていた姿になってきているのだ。
それに関しては、喜ばしいことだと思う。
しかしながら、その人を支えてくれる存在はどうしても必要だろうと思う。
その存在を、確保した上でないと、私だったらなかなかものは言えないな。

それと、やることの内容の細部よりも、大切な事があるのではないか、ということに気づいてほしいな。
若い人に、その組織の外側を含めて、全体をおちついて見ろと言っても、なかなか難しいとは思う。

私は何を言われても、あえて反論は述べない。
黙って受け止める。
自由にものを言える、ということは、すばらしいことだ、と思っているから。

若い人にはこう言いたい。「私のようになるな」、そして「私のような人間をつくるな」と。

2021年12月12日日曜日

本質を見分ける事は難しい

わずかな特徴によって、そのものが何であるか、見分けるのは非常に困難だ。
例えば、同じ似たものがある中で、ひすいだけを見分ける場合がそうだ。
まあ、初めてだと、他の石とほとんど見分けが付かないだろうと思う。
下の石などは、「きれいな石英」あるいは「きれいな曹長岩」とほぼ見分けが付かないだろう。
それほど、ひすいと他の石は良く似ているのである。


何回も海岸に通い、たくさん騙されてみないと、それは分からない。
たぶん人生も同じで、最初のころは騙されてばかりいても、経験を積めば本物だけを選別することもできるようになる。
だから、「無駄足」ということはない。何事も、回数を重ねれば、その本質が見えてくる。
それがひすい拾いの醍醐味でもあり、人生の醍醐味でもある。
「失敗した。これで人生は終わりだ」ではなくて、その失敗を「本質を見分けるための学習機会」ととらえると、人生は楽しいものになる。


おそらく、どんなに本質が見抜けるようになっても、完璧ということはない。
もしも完璧に出来るひとがいたら、その人は超人である。そういう人もいないことはないが、まれである。
また、その人が「出来ること」について、「本当に楽しんでそれをやっているのか」は、誰の目にもわからない。
本人が望んでいなくとも、ある能力について、非常に優れている人がいるものだ。


 物事の本質を見分けるのは難しい。しかし、何事も「実際に経験」してみないと、難しいのか難しくないのかもわからず、楽しいか楽しくないのかすらもわからない。

なんでも「やってみる」のが良い。そして継続することが大切だと思う。

2021年12月7日火曜日

この石をひすいと判断してもよいのか?

以前にも書いたように、きれいだと思った石がひすいだと私は思う。
しかし、「鉱物としてのヒスイ輝石」であるかどうか、となると、イメージと実際が一致しない場合もあるだろう。
例えば、以下のような石は、ヒスイ輝石岩である、としている人もいるようだ。
角があり、比重があり、硬い。しかしながら、私はこれをひすいだとは判断したくない。
自分の感覚だが「ひすい独特の雰囲気」がない、と思うからだ。この感覚は全くの主観である。
私の中では、この石は「ロディン岩」に分類されるし、実際今までそうしてきた。
「きれいだ」と思わせる何かがないと、その石に対して、どう向き合ってよいのか、わからなくなるからである。
ひすいは「徳」のある石であり、何も感じられない場合、その存在を特別の存在とは出来ないのだ。

比重がヒスイ輝石の理想比重(だいたい3.3程度)であり、ひすいに見える。しかし、何かが違う。

もし上の石がヒスイ輝石岩であるとすれば、この石もヒスイ輝石岩だという事になる。

私がひすいだと思っている石は、この写真のような石だ。独特の雰囲気がある。この雰囲気は「勘」でしか分からない。

2021年12月6日月曜日

勝山 条件は割と良かったが砂多し

今日は久しぶりに勝山でひすい拾い。引き潮で条件は割と良かったはずだが、砂だらけ。
やはり青海川河口の整備で、砂浜が出来るようになったからだろう。これからはあまり期待できそうもない。
石の質もあまり良くないようだ。しかし、比重を計ってみたら理想的な石が多かった。しかし、ロディン岩も、ヒスイと比重が同じである。

冬になり、波も大分荒くなってきて、ひすいが打ちあがるようになってきた。
しかしこれは「非常に波の力が強い」ことを意味する。
油断すれば、大荒れの海中に引きずり込まれる。
また、今日はうねりが強く、何回かに一回は、非常に高い波が来ていた。

ひすい拾いを始めた頃は波の怖さが分からず、かなり沖の方を探していた。
しかしだんだん回数を重ねるにつれ、恐ろしくてそういう危険なことは出来なくなってきた。
たとい救命胴衣を着けていたとしても、あの波では助かるかどうか分からない。

以前「ひすい拾いは、サーフィンに似ている」と書いたことがあるが、常に波に注意していないと、思わぬ危険にさらされることになる。
有名なサーファーのグレッグ・ロングが波の中で感じたことを思い出し、謙虚な姿勢で海岸に降りなければならないことを再認識した。

今日拾った石たち。上がひすいかロディン岩。下は曹長岩と石英。

比重3.2の白い石。ロディン岩にも見える。透過色が青くない。

比重3.2 結晶キラキラの石。結晶が荒いので、すごく良質な石、とは言えない。

上の石の結晶。比重があるので、曹長岩ではない。

比重3.02の石。一部に結晶が見えるが。

透過色は非常に良い。今日拾った中で一番良いと思う石。