2021年1月14日木曜日

外を歩き回って知ること

 


私は山歩きを始める前は、机の前ばかりに座っている人間であった。
本を読むのが好きで、さまざまな分野の本を読んだ。
そのうち昔のチベット語の原典を日本語に翻訳することに興味を覚え、大学ではそれに集中した。
社会に出てからは、それでは収入が無いので、コンピューターのプログラムを教える先生になった。
いつも机の前ばかりに座っているので、腰が痛くなった。
これらの仕事がつまらなくなってきたので、やめた。腰痛がつらかったのもある。

山に登るようになると、腰痛が治ってきた。
自然がきれいだった。
日本の自然は美しい。

あまり登山にのめりこみすぎて、迷惑をかけるのもめんどうだな、と思い始めているうちに、新型コロナ騒動が起こった。
登りたい山にはだいたい登ったし、行きたいところにも行ったような気がする。

外を歩き回って知った事。
机の前に座っているよりは、ずっといい。
必ずしも遠くに行く必要はない。日本の自然はきれいで、近くにも歩ける場所はたくさんある。

気が滅入ったら近くを「散歩」でもしてみると良い。河原や海岸を歩くだけでも、だいぶ気分転換になる。

2021年1月11日月曜日

神話論理的「開山伝説」分析

 


神話論理的に有名な名山の「開山伝説」を読んでみると、かなり「共時的に」重なり合う部分がある。
記号化するためにまず「神話素」を取り出してみる。

対象となる山は、それぞれ

富士山:F
立山:T
白山:H
大山:D
薬師岳:Y

としてみる。

「動物素」は、鷲、狼、馬、龍
「宗教素」は、イザナミノミコト、地蔵菩薩、阿弥陀如来、十一面観音、薬師如来
がこれらの神話の中から得られる。

神話としてほとんど同じ構造を持つのは、TとDである。
また、全体に共通してみられる要素は神仏による「導き」である。
これらによって、一般人は宗教的世界に加入する。

Fは足の白い黒馬が、聖徳太子を山頂まで導く
Dでは金色の狼が導く
Tでは白い鷲が導く
Hでは夢に現れたイザナミノミコトが導く

Dでは行者を金色の狼が地蔵菩薩の所に導く
Tでは白鷲が行者を阿弥陀仏の元に導く
Yでは行者の夢に現れた薬師如来が山頂まで導く
Hは直接行者をイニシエーションに導き、その結果池から九頭の龍が現れる。

ほとんどが夢告か動物によって山頂まで導かれる。
動物を殺生する、という罪の要素を持っているのがTとDである。
夢告の場合は、直接神聖な存在が山頂まで行者を導くのである。

より山頂までの距離が近いのはYとHであり、直接的イニシエーションを受けている。
「動物素」が神聖な存在の役割を果たす場合、イニシエーションはより間接的であると言える。

だいたいこれによって浮かび上がってくるのは、何らかの力が行者を山頂に導く物語である。
TとDの神話のあらすじは同じであり、動物と神聖な存在が入れ替わっているだけである。

これらの神話において、動物素が現れるものは古い「アニミズム」的な信仰が下敷きになっている可能性がある。
南アメリカの神話においても、動物は「記号」の役割をしている。
開山伝説に現れる動物たちは、これらの古い構造に関係していると私は思う。

『やきもち焼きの土器つくり』(原題:La potière jalouse)読み終える


 

『やきもち焼きの土器つくり』を読了。
レヴィ=ストロースは『構造人類学』の中で手法を説いた「神話論理」によって、土器の起源に関する南北アメリカの神話を解析していく。
そのために集められた神話は非常に多岐にわたる。使用された主な神話は、巻末に付論として示されるから、これを読むだけでも十分価値はある。本文では、既刊の神話論理4部作から引用されている神話も多く、詳しく知りたいならこれらの神話も知っておいたほうが良いであろう。

彼が「動物素」と呼ぶ神話に登場する動物たちは、ヨタカ、ナマケモノ、アリクイ、コウモリ、フクロウ、オポッサムなど非常に多いが、これらをアメリカ先住民たちは構造の格子を利用してうまく入れ替え、神話のストーリーを作っていることが分かる。
それに人間の排せつ物その他の要素、性の問題、嫉妬、インセストタブーなどフロイト心理学で重視される要素が組み合わされる。
レヴィ=ストロースはこれらの神話が、フロイトの創始した精神分析学よりはるか以前に精神分析と同じような機能を果たしていた、と言うが、本文をお読みになればその意味がよく理解できると思う。

なぜこれらの神話が語られたのか。それは人間の心の中の葛藤を調停するためである。
そしてこれらは「呪術師」たちが社会を維持するために使うものであった。

土器がなぜ作られたのか、その謎をさまざまな自然・生理現象にあてはめ、人間とともに生きてきた動物たちの世界を記号化して説明するのである。
先住民族においては、これこそが「言語」であり「文字」である。
「先住民族は文字を持たないし、したがって文法も持たない」というのは、たいへんな誤りである。
彼らは形になっていない「言語」を持ち、自然を観察してその中に「構造」を見出し、自然現象そのものを「記号」として、彼らの世界を組み立てていたのである。

レヴィ=ストロースは、ジークムント・フロイトが精神世界を「性的要素」に還元する手法を批判しているが、それはその中に何か「本質的価値」を見出そう、ということが誤りなのである。それは神話を構成する要素のごく一部分にすぎず、全体的に考えることではじめて意味を持つものである。
ユングは「原型」という形で、現実の心理に及ぼす影響を形式化して見出そうとするが、それも何らかの「本質的価値」を見出そうとする点で同じ誤りである。(これらは「現代版の神話」だという事もできる)

そうではなくて、人間心理というのは固定化できる実体ではなく、何らかの形の無い構造によって仮に表れているものだ。それは決してでたらめでは無く、きちんとした「論理」を持っている。
神話の中にそれが表れたものこそが「神話論理」であり、それは豊かな人間精神の原動力なのである。

だいたいこのようなことが述べられていると思うが、印象深い一文があるので、それを引用して締めくくりたい。
まだまだ読み込みが浅い、と思うが、豊かな内容に私の貧弱な理解力が付いて行っていないことをお許しいただきたい。

こうして日本語の書字体系は、2種のコードを使いこなしているのである。
テクストの意味は、いずれか一方から浮き上がってくるのではない。二つが分離されると不確実な部分を除去できないからである。
意味は、両者の相互的噛み合わせから生まれてくる。
神話において観察されるのもこれに似た情況である。ただ、神話においては、より多くのコードが働いている点が異なっている。 
(『やきもち焼きの土器つくり』「ヒバロ版「トーテムとタブー」」(p.274)より) 

2021年1月7日木曜日

民族学関係の本を結構読む

コロナ蔓延や大雪でアウトドアどころか、買い物に行くにも気を遣わなければならない状況。
こんな時は、興味ある分野の本を読むのが良いようだ。

『悲しき熱帯』、『野生の思考』は読み直してしまったので、その他のレヴィ=ストロースの著作や、南アメリカの神話をAmazonで買って読んでいる。
先ずは『構造人類学』


この本はレヴィ=ストロースが書いたいくつかの代表的な論文を集めたもの。
内容は非常に濃くて、難しい(専門的)。
完全に読み切るまでに10日程度はかけた。
この本の中に初期のレヴィ=ストロースの構想はまとまっている。一読すれば『野生の思考』の裏付けとなる思考方法は理解できると思う。
特に先住民社会の親族構成の基本構造や、単純に2分割でとらえられがちであったそれまでの民族学者の観察を不十分として、より複雑な構造を見出す論文はおもしろい。
言語学と数学を使って新たな民族学を生み出そうとするパイオニアとしてのレヴィ=ストロースを読むことが出来る。
ものごとを整理して考えるには、このようにしてやればよいのか、という方法を教えてくれる点で、目からうろこであった。



次は、一連の『神話論理』の後に書かれた『小神話論理』の中の代表作である「やきもち焼きの土器つくり」。これはまだ現在も読んでいる最中であるが、土器の起源をめぐるたくさんの神話を比較研究し、そこから「経験的演繹」という(笑)直観的方法で、対立関係を取り出して、これらの神話の真意に迫る。
ヨタカがなぜ土器と関係するのかを、微に入り細に入り追及してある。
たくさんの神話のバリエーションが読めるのが良い。そこからどんな結論がでてくるのか、まだ最後まで読んでいないので楽しみである。
表紙のユーモラスな「ヨタカ」の絵がとても気に入っている。


最後に、ピエール・クラストルがグアラニ族の神話をまとめた『大いなる語り』。
これは神話の集成という点で良くまとまっており、読みやすかった。
先住民が語る神話は、南アメリカ全域でどれも何らかの関係があることを確認できる。
レヴィ=ストロースが言うブリコラージュが神話の世界でも生きている。
いろいろな話を、語られる対象を取り替えたり、逆の意味にしたりしていることがわかる。
ただ、編者であるクラストルはレヴィ=ストロースとは違った立場で神話を読む。
クラストルによれば、これらの神話は「国家」=「統一する首領」に対抗して起こった民間の呪術師(カライ)が説教して歩いた物語であり、ブラジル先住民族の魂そのものだ、という。
西洋文明によって破壊され、現在も破壊され続けている先住民族の文化。
地上は汚染されているので、新しい土地を求めて移動せよ、という先住民族の悲しい叫びが聞こえてくるようだ。彼らにとって精神の支柱となるのは、これらの昔から伝わってきた神話である。

以上だいたい現時点で読んできた本の感想を簡単にまとめてきたのだが、内容が豊富過ぎて少しオーバーフロー気味だ。
何回も読み直して、少しづつ理解していかなければならないと思った。

2021年1月1日金曜日

パンドラの箱

 


サンマイクロシステムズのチーフ技術者でBSDの開発者でもあるビル・ジョイ氏は以前「ロボット工学や遺伝子工学、ナノテクノロジーといった21世紀の強力なテクノロジーが、人類の存在を脅かす」と述べ、近代文明の過度の発達に警鐘を鳴らしていた。

近代文明はフォン・ノイマンの理論で作られた「コンピュータ」によって著しく複雑化した。
これは人間の行いを「記号」と「計算式」で表現することに成功した。
今のコンピューターはほぼ全てフォン・ノイマン型と言われる演算装置で動いている。

ノイマンの理論は構造人類学の祖でもあるレヴィ=ストロースによっても注目されていた。
彼は人類の社会の持つ「構造」を、これによって明らかに出来る可能性をしばしば指摘している。

現代社会は様々な点で「コンピューター」が関わりを持っている。
計算と論理、数理論理学によって、人間の能力をはるかに超えた計算ができるようになっている。
これは人間を「豊か」にしたように見える。
たしかに、それは物質的、精神的な満足を多くの人々に与えた。
その結果、人類の数は加速度的に増えた。平均寿命が延び、医療も昔と比較すれば格段に発達したのである。

物質的にも、精神的にも、人間は従来「到達できない」と考えられてきた世界に到達している。
これは人類に飛躍的な「変化」をもたらしている。

ただ、それは人間と自然とのバランスをおかしくしてしまった。
人間が人間の限界を超えてしまった。「パンドラの箱」は開けられてしまった。

これらは地球温暖化、環境破壊を人類にもたらした。
精神的には、極端な合理主義、享楽をもたらし、人心は荒廃し、貧富の格差は広がっている。
「なぜ、自分より弱い他人を救う必要があるのか。お金が無くて生活出来ないのは、努力をしないからだ。勉強しないからだ。私は強いから生き残る価値があるのだ」という言説は、普通に聞かれる。たとえ聞かれなくても、そういう考え方で行動している人も多く見られるように思う。

「なぜ、神をあがめる必要があるのか。それは人間の弱さが作った幻影だ。昔の人は科学を知らなかったので、間違ったのだ」
人間はついに神を超えてしまった、というわけである。

しかし本当にそうだろうか?人間はそれほど物知りなのだろうか?
自ら「パンドラの箱」を開け、その結果出てきた「不幸」が、今猛烈に人間に襲い掛かっている。
開けたは良いが、それをどうやってもとに戻すのか、分からなくなっているようにも見える。

科学は先住民社会における呪術と同じ機能を持っている、とはレヴィ=ストロースの指摘である。
それは物の本質を偽装して、社会を安定させるように働く力だ。
世間の人の期待通りに、科学も作られているわけだ。
その結果、科学は人間の欲望を無際限に拡大する。たとえ人間社会そのものを破壊してしまうような力でも、それが人間の欲望を満たす力であれば、受け入れられるのだ。
ブレーキの無い車と同じである。
ただ、その偽装が明るみになった時、呪術は力を失ってしまうのだけれども。

先住民社会の言い伝えの中には、必ず教訓がある。呪術に巧みであっても、必ずしも幸福になるわけではない。それによって自ら滅ぶ説話は、いくらでもある。
人類が一つの大きな社会になっている現在、それらの教訓こそ、もっと知られるべきではないだろうか。