フジテレビの問題
最近取り上げられることが多くなったキーワードに「オールド・メディア」がある。ニューメディアであるインターネット、動画共有サービス、SNSに対する古いメディアとしての「テレビ」「ラジオ」「新聞」を指す。
確かにテレビ、ラジオ、新聞は今まで大きな影響力を与えてきたメディアであった。
しかし、インターネットが開放されて以降は、「個人が発する情報」の中で大きな影響力を持つものが現れてくるようになった。
仕事場のパソコンや個人のスマートフォンに直接配信される情報が、公共の場で見聞きしたり、紙に印刷された情報より大きなインパクトを与えるのは必然である。
今や情報は歩きながらでも、寝ながらでも、常に24時間入ってくる。
新聞が配られるのを待つ必要がない。
情報は速いほど価値がある。
また、紙に印刷するということは、それだけ森林資源を無駄に使うことに等しい。
紙は多量の木から作られるのだから。
情報の機密性を保証する技術(電子署名や暗号化)も発展し、もはや印鑑が不要である。
捏造や改ざんを受けることなく、公的な書類などを作り、送信する技術が確立されている。
むしろ、紙に印刷されたデータの方が信用できない、という時代になりつつある。
世界が変化しているにも関わらず、日本はかたくなにデジタルデータを「信用できない」と言って拒否し続けていた。その傾向は今でも強い。
その結果、日本の社会は変化に取り残されてしまった。今になって盛んに「マイナンバーカード」を普及させようとしているが、明らかに周回遅れである。
このような「遅れた」メディアの代表格が「テレビ」であったのかもしれない。
昨日の10時間にも及ぶ会見は一部見たけれども、社長が責任を取って辞任する、という以外には、「今後どうするか」という会社の方針についての表明は皆無であった。
たったそれだけのことを述べるのに10時間もかけているのは時間の無駄である。
まずは「この会見は何を目的とするのか」という明確な表明がなかった。
最初から社長の辞任会見であり、事件の詳細については第三者委員会が調査して後で発表する、ぐらいで良かったのではないか?
どれだけ会見の場で詳細を追求したとしても、調査が完了していない時点では、何も述べられないだろう。
会見の途中でしきりに「企業風土」という言葉が出てきたが、Googleに訳させてみると「Corporate Culture」になった。会社の文化、という意味である。
「文化」は「人類の理想を実現して行く、精神の活動。技術を通して自然を人間の生活目的に役立てて行く過程で形作られた、生活様式およびそれに関する表現。」
という意味らしいが、その人類の理想が仮に「利益追求」であるとするならば、利益追求のためであればどんな犠牲も厭わない、という意味にになるだろう。
もしかしたら日本のどんな企業でも同じなのかもしれないが、フジテレビの「人類の理想」が、その程度のものであったことが露呈してしまった。
本来の「人類の理想」とは、もっと高いところにある概念ではないか?
欧米では、実現しているとはいいがたいけれども「自由、平等、博愛」などを「人類の理想」として明確に掲げているのは事実だ。
対して日本やアジア諸国で、そのように明確に理想を掲げている国は見たこともない。
ましてや「個人」を蔑ずむ会社に、「基本的人権」の概念が理解されるはずもない。
「利益追求」の部分のみが強調され、「何のために利益を追求するのか」の部分がまったくなおざりにされている。それが今の日本社会である。
個人を利益の為に役立てるだけのことを「企業風土」と言っているような、とても時代遅れな会社が運営している「テレビ」が、フジテレビの実態だとすれば、このようなテレビは早晩、この世から淘汰されていくだろう。
バブル真っ盛りの時代のコンテンツにいつまでもすがりつく。この傾向はマリオやポケモンにしがみつくどこかの企業でも同じであろう。
日本の凋落は「あたらしい、魅力的なコンテンツ」を生み出すことができなくなったのが根本原因としてある、と思う。
それだけ、社会が「老化」しているのであろう。