2025年1月28日火曜日

納得いくひすい写真 RICOH CX1

 RICOH CX1というコンデジはなんと2009年製である。今から16年も前のカメラである。

しかし今でも現役で使える実力を備える。iPhoneのカメラで撮影すると、なんとなく現実感を欠く絵ができてしまうが、このカメラで撮った絵は、本物の色が出る。

このカメラのすごさに気付いた人がいるのか、前まで1000円ほどでたたき売られていたこのカメラの中古市場は現在2万円程度まで上昇している。

ひすいを撮影しても、そのままの色を再現できるカメラは、このカメラしかない。

今でも使っているCX1 後続のシリーズに比べて、開放値がF3.3とわずかに明るいレンズを使っている。

CX1で紫ひすいを撮る。そうです、まさにこの色なんです。

これもそのまんまの色が出ている。iPhoneのカメラでは絶対にこの色にはならない。

色のディテールまでよくわかる。このカメラはすごいです。Canonの一眼で撮っても、こうはならない。

眼で見たまんまです。そのものが目の前でガラスケースに入っているようなものです。

日本の古い考え方

 フジテレビの問題

最近取り上げられることが多くなったキーワードに「オールド・メディア」がある。ニューメディアであるインターネット、動画共有サービス、SNSに対する古いメディアとしての「テレビ」「ラジオ」「新聞」を指す。

確かにテレビ、ラジオ、新聞は今まで大きな影響力を与えてきたメディアであった。
しかし、インターネットが開放されて以降は、「個人が発する情報」の中で大きな影響力を持つものが現れてくるようになった。
仕事場のパソコンや個人のスマートフォンに直接配信される情報が、公共の場で見聞きしたり、紙に印刷された情報より大きなインパクトを与えるのは必然である。
今や情報は歩きながらでも、寝ながらでも、常に24時間入ってくる。
新聞が配られるのを待つ必要がない。
情報は速いほど価値がある。
また、紙に印刷するということは、それだけ森林資源を無駄に使うことに等しい。
紙は多量の木から作られるのだから。

情報の機密性を保証する技術(電子署名や暗号化)も発展し、もはや印鑑が不要である。
捏造や改ざんを受けることなく、公的な書類などを作り、送信する技術が確立されている。
むしろ、紙に印刷されたデータの方が信用できない、という時代になりつつある。

世界が変化しているにも関わらず、日本はかたくなにデジタルデータを「信用できない」と言って拒否し続けていた。その傾向は今でも強い。
その結果、日本の社会は変化に取り残されてしまった。今になって盛んに「マイナンバーカード」を普及させようとしているが、明らかに周回遅れである。

このような「遅れた」メディアの代表格が「テレビ」であったのかもしれない。
昨日の10時間にも及ぶ会見は一部見たけれども、社長が責任を取って辞任する、という以外には、「今後どうするか」という会社の方針についての表明は皆無であった。
たったそれだけのことを述べるのに10時間もかけているのは時間の無駄である。
まずは「この会見は何を目的とするのか」という明確な表明がなかった。
最初から社長の辞任会見であり、事件の詳細については第三者委員会が調査して後で発表する、ぐらいで良かったのではないか?
どれだけ会見の場で詳細を追求したとしても、調査が完了していない時点では、何も述べられないだろう。
会見の途中でしきりに「企業風土」という言葉が出てきたが、Googleに訳させてみると「Corporate Culture」になった。会社の文化、という意味である。
「文化」は「人類の理想を実現して行く、精神の活動。技術を通して自然を人間の生活目的に役立てて行く過程で形作られた、生活様式およびそれに関する表現。
という意味らしいが、その人類の理想が仮に「利益追求」であるとするならば、利益追求のためであればどんな犠牲も厭わない、という意味にになるだろう。
もしかしたら日本のどんな企業でも同じなのかもしれないが、フジテレビの「人類の理想」が、その程度のものであったことが露呈してしまった。

本来の「人類の理想」とは、もっと高いところにある概念ではないか?
欧米では、実現しているとはいいがたいけれども「自由、平等、博愛」などを「人類の理想」として明確に掲げているのは事実だ。
対して日本やアジア諸国で、そのように明確に理想を掲げている国は見たこともない。
ましてや「個人」を蔑ずむ会社に、「基本的人権」の概念が理解されるはずもない。
「利益追求」の部分のみが強調され、「何のために利益を追求するのか」の部分がまったくなおざりにされている。それが今の日本社会である。

個人を利益の為に役立てるだけのことを「企業風土」と言っているような、とても時代遅れな会社が運営している「テレビ」が、フジテレビの実態だとすれば、このようなテレビは早晩、この世から淘汰されていくだろう。

バブル真っ盛りの時代のコンテンツにいつまでもすがりつく。この傾向はマリオやポケモンにしがみつくどこかの企業でも同じであろう。
日本の凋落は「あたらしい、魅力的なコンテンツ」を生み出すことができなくなったのが根本原因としてある、と思う。
それだけ、社会が「老化」しているのであろう。

2025年1月25日土曜日

翡翠に見える?錯覚

何か月ぶりのアウトドアであろう。あまりにも出ていないので、内臓脂肪が蓄積し、足も筋肉が落ちているのがわかる。
これで山は危険なので、海岸へ。
先客が数人。海岸の状態は悪くないのだが、すっかり採取されつくしたのか、相変わらず何もないなあ。この時期にネフライト一つない、という状況は初めて経験したかもしれない。
最近すっかりオーバーユースでどうしようもない。

いつもの海岸へ降りる。波は弱い。

親不知海岸に向かって歩くが、途中から立ち入り禁止。崖が雪崩で崩壊しており、危険

崩落個所と思われる場所に、岩が堆積している。

入っちゃいけない場所には入らない。

順次探索していくが、なにも見つからず。

引き潮でいい条件なんだけどね。何も見つからない。ネフライトもオンファスも無い。あるのは石英ばかり。

砂利ばかり。石英に緑が入っていると、思わず翡翠に見えてしまう。錯覚だけれどね。

以前より海岸が広がっているのは確実だな。姫川沖にテトラポットを投入した効果があったのだろう。しかし、それはひすいが砂利の下に隠れてしまうことを意味する。もう二度と、ひすいなんか取れなくなってしまうかも。

ここまで約2kmほどかな?往復で5kmぐらい歩けた。

 

2025年1月13日月曜日

「動画作成ビジネス」の罠



「動画を作成するだけで、月ウン十万が稼げる」とかいうビジネスが流行っているらしい。
たしかに最近、動画作成の需要は高まっていると思う。
しかしながら、動画製品として一定の品質を満たし、広告用途の需要に応えるほどのクオリティーの高い動画を制作するためには、特別な教育、長い経験、高価な機材、高価なソフトウエア、特別な感性等が必要であり、経験の浅い普通の人間にそれができるとは思えない。

長年コンピューターに関わってきた身として言えることは、コンピューターを使ったクリエイティブな仕事で収入を得ることは、極めて困難だ、ということである。
私は今までいろいろな分野を学んできたが、動画作成はやっていない。
これは一種の「芸術」だと思うからである。少なくとも私にはその感性は無い。
そもそも、誰もが芸術家になれるわけではないし、一定のレベルを超えた作品を作れるのは、ほんの僅かのうちの、さらにわずかな人間だけである。

特に最近は生成AIによって、かなり高度な動画を作成することができる。
わざわざ、高いお金を支払って、人間にお願いするような仕事は、確実に減っている。
このような厳しい環境の中で、本当に「月ウン十万」の収入を得ることができるのだろうか?

今の若い人たちは、こういう「詐欺」文句に騙されやすいようだ。
闇バイトの問題についてもそうだ。
苦労せずに、山には登れない。それと同様、苦労せずに収入を得ることは不可能だ、とはっきり認識しなければならない。
山の頂点に立つものが、どれだけの努力をしてそこにいるのか、を十分に考えるべきである。

2025年1月10日金曜日

What am I to do?

 Stable Diffusion 3.5という画像生成AIに、以下のテーマを与えて、画像を生成したら、とても良い絵ができたので、載せてみることにした。


与えたプロンプト:

Japanese mountains, and the man who walks around them. He says: ‘What am I to do?’ 

 At that moment a man appeared and said. ‘You must be honest with yourself.’

「日本の山、そしてそれの周りを歩く男。彼は言う「私は何をすればいいのだろう?」。その時、ある男が現れて言った「君は君自身に正直になりなさい」」

2025年1月6日月曜日

石と人間社会

 

新年、あけましておめでとうございます。
今年もいろいろ活動したいのだけれども、ちょっと人間関係で忙しくなりそうな雰囲気。
人間社会というのは、いろいろな軋轢があって、面倒だな。
そもそも、海岸の石ころのように、まったく同じ人間などいないのだから。
「みなさんは平等に人間なのです」と言えば、かならず文句を言う人が現れるし、
「それぞれ自分の思い通りにやってください。自由なんですから」と言えば、社会がばらばらになってしまう。
実に難しいのが人間社会というところだ。

海岸の石ころは、一様に大きさが似通っており、丸みを帯びている。それは厳しい自然環境にさらされて、角が取れているからである。
糸魚川あたりの、山から距離が近い海岸の石は、固い部分がのこっているのか、どの石も簡単には壊れたりしない強靭さを備えている。
しかし普通は、どんなかたい岩石でも、海岸にまで至ると、砂粒になっていることがほとんどである。
それが集まって「砂浜」を形成していることが多い。

人間も年齢を重ねれば、ある程度角が取れているものだ。しかし、中心部の頑丈なものはそのまま残っている。これは軋轢を生むことがある。
それはとても強く、簡単に割れない。割ろうとしても無理である。

だとすれば、それは自然にできたその人のその人らしさであり、否定すべきものではない。
そういう存在が無数に集合して、人間社会というものが出来上がっているのだ、と思っている。

2025年1月1日水曜日

地学の価値

 高校地学の本

よく文系で「役に立たない学問」の代表とされるのが「哲学」である。
一方の理系では「役に立たない学問」とされるのは「地学」であるらしい。
高校での選択率は1%ぐらいだという。
したがって、ほとんどの人は中学の理科で地学を学んだだけだ、ということになる。

しかし、私はこの「役に立たない」学問に非常に魅力を感じてきた人間である。
「哲学」は「物事の意味やこの世界の成り立ちの根源的なものを、論理的に追及する学問」であり、「地学」は、ふつう疑問にも思わないような「地面」を詳しく研究する学問である。
どちらにも共通するのが「あたりまえのものを、深く探求する」ということである。
ふつう人が興味を持たない対象に関して、深く知ろうと試みる。

地面は、どんな石でできているのだろうか?
そんなことを普通はだれも知りたがらない。
「そこにある」ものを深く考えてみても、何の役にもたたないからだ。
そんなことを学ぶ暇があったら、他人より一円でも儲ける理論を知っていたほうが良い、と思っている人が大半ではないだろうか?

しかし、世の中、それでいいとは、私は思わない。
むしろ、そういう「あたりまえ」の物事の中にこそ、新しい発見があるのではないか?
人が幸せになるためには、たしかにお金は大切だろう。
だが、お金だけで世界を見てしまうと、利益の他のものが見えなくなってしまう。
実際「利益」以外の場所はとても広いのだ。
すべて利益で考えると、山や海岸の石などはまさに役に立たない「石ころ」である。
そんなものは本当に「掃いて捨てる」ほど多く、膨大な量である。
人間はその中のほんのごくごくわずかしかない「金」「レアアース」などになら血眼になる。
なぜならそれは「利益」を生むからだ。
地学はそのような希少な金属元素を探索する目的の学問ではない。それは鉱物学や鉱山学などの別の分野の学問になるだろう

地学はまさに役に立たない「石ころ」や「泥」を対象にする学問だ。
そこから、地球や宇宙の成り立ち、仕組みを考える。
とても奥深く、壮大なスケールの学問ではないだろうか?
こういう学問が重視されなくなると、世の中は余裕のない、息苦しい世界になってしまう。
大都市がコンクリートで覆われ、大地が見えなくなっている状況は、まさに現代社会の状況を象徴している、と言えないだろうか?

人間はもっと大地に触れた方が良い。
大地と切り離されると、人間は本当に枯れてしまう、と思う。
そのために地学はもっと注目されてもいい学問ではないか?
それを学ぶことによって、私たちは「自分の成り立ち」を直接知る、ということにもつながるのではないだろうか?