先日の「鉢伏山」は良かった。久しぶりの有峰であったし、最近どちらかと言うと整備が行き届いた山ばかりに登っていたからだ。
有峰は富山県の中でも、特に豊かな自然が体感できる場所である、と思っている。
(対して立山方面は、あまりにも開発がされすぎている)
よく整備された里山は確かに歩きやすい。登山道も整備されている。
また、深い山であっても、北アルプスのように何から何まで完備している場所もある。
(そして多くの登山者と共に、追い立てられるように登ることになる。。。)
鉢伏山に行く道は、確かに以前と違って有料の林道でアクセスできるようにはなってはいる。
しかし一旦横の「深い山」に踏み入れば、豊かな自然が出迎えてくれる。
このような場所を訪れる者は、名山を踏破する目的がある人か、よほどの好事家ぐらいしかいないかもしれない。
当然のごとく、単独で山に入ることになる。
一番いいのは、草が生えていることだ。たしかに登山道は不明瞭になるし、道迷いの危険もそれに伴って高くなるだろう。
だが、きれいに草刈りがされ、木道、階段、鎖、丁寧な場合は石畳まである山は、どこか不自然である。
そもそも「山」とは、人跡未踏の深山幽谷の趣がある場所ではないだろうか?
鉢伏山はかつて亀谷鉱山の重要な坑口がいくつもあり、かなり人の手が入った山であった。しかし大正時代に操業を停止すると、そのまま放置された。
それから100年以上も経過すると、自然は元の姿に戻っている。
人間が見捨てて顧みなくなると、まるで傷口をふさぐように、雑草が生い茂り、木々が生え、昆虫が跋扈する。
これこそが山の「ほんとうの姿」ではないだろうか?
そして、それを体験するために、私はわざわざ山に登るのではないだろうか?
登山は「遊歩道」の延長ではなくて、未整備の環境の中に身を置くこと。
それによって、不思議なエネルギーを頂くことができる。
忘れかけていた「登山する意義」を、今回改めて感じられたような気がした。
私は「つくりもの」は嫌いである。なぜならどれだけ巧妙に似せて作ったとしても、それは「そのもの」ではないからだ。
人間の技巧、技術を否定するわけではないが、それらばかりある環境の中にいると、なぜかひどく疲れてしまうのだ。