2022年12月13日火曜日

今年を振り返る

 


今年の山行を振り返ると、今まで登ったことのなかった山を4座登れたのが幸運であった。

まず最初は籾糠山
この山は、何回も登りたいと思いながら、いつも国道360号線の通行止めで、登れなかった。今回は小鳥ダムを経由して、天生峠に行き、何とかたどり着くことができたのであった。
全体に緩やかであったが、終盤は急登の場所があった。ただし標高差500m程度の山で、それほど疲れなかった。かなりの奥山で、秘境の雰囲気を味わうことができた。

次に三ヶ辻山
ここは人形山の少し横であったが、登山道は予想以上にしっかり分かった。
人形山より距離が少し遠く、一部に急登の場所があった。
この時は終日ガスの中で、幻想的な雰囲気の中を登れた。
日差しが弱い方が、汗をかいたりせず、楽しく登れることがあることを、再認識できた。

そして次は越中駒ヶ岳
最高の快晴の中、美しい紅葉に出会えた。僧ヶ岳の先はやせ尾根であり、そしてその先にうっすらと雪のついたスラブがあった。「撤退か、前進か」迷ったが、意を決して前進。
山頂には、言葉では言い表せないほどの素晴らしい景観があった。

最後はクズバ山
何回か登っている中山の奥、すさまじい急こう配の登山道を登りきった先の山頂には、意外なほど広いスペースがあり、そこから間近に見る奥大日岳、剱岳の勇壮な姿にただただ圧倒された。

初めて登る山は、何回も登っている山に比べて、未知のことが多く、初心に帰って登ることができると思った。
いままでコロナ禍の影響もあるが、山に行くなら、なるべく慣れた道にしよう、と思って冒険することが少なかった。
しかし、3年ぶりぐらいで、新しいエリアに行ってみよう、という気持ちになったのであった。

景気の落ち込み、まだ先の見えぬ社会情勢であるが、山の自然は、人間界のそんな問題に構うことなく、いつものように巡っている、と感じた。
去年と同じではなく、しかも山は山としての営みを続けている。
すばらしい環境だ。山に入れば、身も心も清められる気がするのは、登山を始めた時から、変わらない思いである。

今年も、大きなけがもなく、安全に登山できたことを感謝します。
来年もまたいろいろな山に登ってみたい。

2022年12月12日月曜日

話題のAI

これはいろいろな言語でトレーニングされており、日本語も理解する。
疑問に対して詳しい説明をしてくれる点では、今までにないものだ。
結構抽象的な質問にも答えてくれる。


例えば、「死とは何か?(What is death?)」という質問を、(あえて英語で)質問した結果が以下である。

”死とは、人または生物の生命が永久に終了することである。死は、生物としての個人の存在の終わりであり、通常、心拍、呼吸、脳活動などの身体機能の終了によって示される。死はライフサイクルの自然な一部であり、すべての生物に最終的に起こることである。愛する人を失った悲しみに対処するのは難しいため、死はしばしば悲しみや悼みと結びつきます。しかし、死は異なる状態への移行であると考えることで、慰めを得る人もいます。”

実に一般的な答えである。しかも、極めて的確にそれを示している。
しかし、これで本当に納得してもいいのであろうか?という不安が常に付きまとう。
なんだか、煮え切らない感じがする。

私は「わからない」という答えを期待していた。
「死」は言語表現を超えた「何か」である、と。

2022年12月11日日曜日

「本物の」ひすいを見つけよう

 


先日、久しぶりに糸魚川の海岸に出てみた。
しばらく歩いて「これはだめだ」ということを悟った。
以前とは比べ物にならないぐらい、ヒスイらしきものがない。
少しは落ちているのが今の時期だと思っていたが、全くない。
たぶん「絶滅」してしまったのであろう。
分かってはいたものの、さみしい気持ちで、せっかくの休みをこのまま帰るのも何であるから、横の勝山城跡に登ってみる。
落ち葉で道が見えづらく、多少危険であったが、すばらしい景色を見ることができた。
今までのさみしい気持ちがいっぺんに明るくなり「登ってよかったなあ」と思った。

たぶんそのままヒスイ拾いをして帰っていたら、残念な気持ちのままで帰らなければならなかっただろう。途中で考え方を変えることによって、思わぬ幸運がすぐ横にあったことを、発見したのであった。

ひすいはたしかに尊い石であろう。しかしそれよりも尊いのは、人生を楽しんだり、満足したりすることではないだろうか?
一つのものに執着して苦しむより、その執着を捨てて、新たなものを見つけるとよいのではないか、と思ったのである。

それこそが「本物の」ひすいではないだろうか?
石ころばかりがひすいだとは限らない。