2025年1月25日土曜日

翡翠に見える?錯覚

何か月ぶりのアウトドアであろう。あまりにも出ていないので、内臓脂肪が蓄積し、足も筋肉が落ちているのがわかる。
これで山は危険なので、海岸へ。
先客が数人。海岸の状態は悪くないのだが、すっかり採取されつくしたのか、相変わらず何もないなあ。この時期にネフライト一つない、という状況は初めて経験したかもしれない。
最近すっかりオーバーユースでどうしようもない。

いつもの海岸へ降りる。波は弱い。

親不知海岸に向かって歩くが、途中から立ち入り禁止。崖が雪崩で崩壊しており、危険

崩落個所と思われる場所に、岩が堆積している。

入っちゃいけない場所には入らない。

順次探索していくが、なにも見つからず。

引き潮でいい条件なんだけどね。何も見つからない。ネフライトもオンファスも無い。あるのは石英ばかり。

砂利ばかり。石英に緑が入っていると、思わず翡翠に見えてしまう。錯覚だけれどね。

以前より海岸が広がっているのは確実だな。姫川沖にテトラポットを投入した効果があったのだろう。しかし、それはひすいが砂利の下に隠れてしまうことを意味する。もう二度と、ひすいなんか取れなくなってしまうかも。

ここまで約2kmほどかな?往復で5kmぐらい歩けた。

 

2025年1月13日月曜日

「動画作成ビジネス」の罠



「動画を作成するだけで、月ウン十万が稼げる」とかいうビジネスが流行っているらしい。
たしかに最近、動画作成の需要は高まっていると思う。
しかしながら、動画製品として一定の品質を満たし、広告用途の需要に応えるほどのクオリティーの高い動画を制作するためには、特別な教育、長い経験、高価な機材、高価なソフトウエア、特別な感性等が必要であり、経験の浅い普通の人間にそれができるとは思えない。

長年コンピューターに関わってきた身として言えることは、コンピューターを使ったクリエイティブな仕事で収入を得ることは、極めて困難だ、ということである。
私は今までいろいろな分野を学んできたが、動画作成はやっていない。
これは一種の「芸術」だと思うからである。少なくとも私にはその感性は無い。
そもそも、誰もが芸術家になれるわけではないし、一定のレベルを超えた作品を作れるのは、ほんの僅かのうちの、さらにわずかな人間だけである。

特に最近は生成AIによって、かなり高度な動画を作成することができる。
わざわざ、高いお金を支払って、人間にお願いするような仕事は、確実に減っている。
このような厳しい環境の中で、本当に「月ウン十万」の収入を得ることができるのだろうか?

今の若い人たちは、こういう「詐欺」文句に騙されやすいようだ。
闇バイトの問題についてもそうだ。
苦労せずに、山には登れない。それと同様、苦労せずに収入を得ることは不可能だ、とはっきり認識しなければならない。
山の頂点に立つものが、どれだけの努力をしてそこにいるのか、を十分に考えるべきである。

2025年1月10日金曜日

What am I to do?

 Stable Diffusion 3.5という画像生成AIに、以下のテーマを与えて、画像を生成したら、とても良い絵ができたので、載せてみることにした。


与えたプロンプト:

Japanese mountains, and the man who walks around them. He says: ‘What am I to do?’ 

 At that moment a man appeared and said. ‘You must be honest with yourself.’

「日本の山、そしてそれの周りを歩く男。彼は言う「私は何をすればいいのだろう?」。その時、ある男が現れて言った「君は君自身に正直になりなさい」」

2025年1月6日月曜日

石と人間社会

 

新年、あけましておめでとうございます。
今年もいろいろ活動したいのだけれども、ちょっと人間関係で忙しくなりそうな雰囲気。
人間社会というのは、いろいろな軋轢があって、面倒だな。
そもそも、海岸の石ころのように、まったく同じ人間などいないのだから。
「みなさんは平等に人間なのです」と言えば、かならず文句を言う人が現れるし、
「それぞれ自分の思い通りにやってください。自由なんですから」と言えば、社会がばらばらになってしまう。
実に難しいのが人間社会というところだ。

海岸の石ころは、一様に大きさが似通っており、丸みを帯びている。それは厳しい自然環境にさらされて、角が取れているからである。
糸魚川あたりの、山から距離が近い海岸の石は、固い部分がのこっているのか、どの石も簡単には壊れたりしない強靭さを備えている。
しかし普通は、どんなかたい岩石でも、海岸にまで至ると、砂粒になっていることがほとんどである。
それが集まって「砂浜」を形成していることが多い。

人間も年齢を重ねれば、ある程度角が取れているものだ。しかし、中心部の頑丈なものはそのまま残っている。これは軋轢を生むことがある。
それはとても強く、簡単に割れない。割ろうとしても無理である。

だとすれば、それは自然にできたその人のその人らしさであり、否定すべきものではない。
そういう存在が無数に集合して、人間社会というものが出来上がっているのだ、と思っている。

2025年1月1日水曜日

地学の価値

 高校地学の本

よく文系で「役に立たない学問」の代表とされるのが「哲学」である。
一方の理系では「役に立たない学問」とされるのは「地学」であるらしい。
高校での選択率は1%ぐらいだという。
したがって、ほとんどの人は中学の理科で地学を学んだだけだ、ということになる。

しかし、私はこの「役に立たない」学問に非常に魅力を感じてきた人間である。
「哲学」は「物事の意味やこの世界の成り立ちの根源的なものを、論理的に追及する学問」であり、「地学」は、ふつう疑問にも思わないような「地面」を詳しく研究する学問である。
どちらにも共通するのが「あたりまえのものを、深く探求する」ということである。
ふつう人が興味を持たない対象に関して、深く知ろうと試みる。

地面は、どんな石でできているのだろうか?
そんなことを普通はだれも知りたがらない。
「そこにある」ものを深く考えてみても、何の役にもたたないからだ。
そんなことを学ぶ暇があったら、他人より一円でも儲ける理論を知っていたほうが良い、と思っている人が大半ではないだろうか?

しかし、世の中、それでいいとは、私は思わない。
むしろ、そういう「あたりまえ」の物事の中にこそ、新しい発見があるのではないか?
人が幸せになるためには、たしかにお金は大切だろう。
だが、お金だけで世界を見てしまうと、利益の他のものが見えなくなってしまう。
実際「利益」以外の場所はとても広いのだ。
すべて利益で考えると、山や海岸の石などはまさに役に立たない「石ころ」である。
そんなものは本当に「掃いて捨てる」ほど多く、膨大な量である。
人間はその中のほんのごくごくわずかしかない「金」「レアアース」などになら血眼になる。
なぜならそれは「利益」を生むからだ。
地学はそのような希少な金属元素を探索する目的の学問ではない。それは鉱物学や鉱山学などの別の分野の学問になるだろう

地学はまさに役に立たない「石ころ」や「泥」を対象にする学問だ。
そこから、地球や宇宙の成り立ち、仕組みを考える。
とても奥深く、壮大なスケールの学問ではないだろうか?
こういう学問が重視されなくなると、世の中は余裕のない、息苦しい世界になってしまう。
大都市がコンクリートで覆われ、大地が見えなくなっている状況は、まさに現代社会の状況を象徴している、と言えないだろうか?

人間はもっと大地に触れた方が良い。
大地と切り離されると、人間は本当に枯れてしまう、と思う。
そのために地学はもっと注目されてもいい学問ではないか?
それを学ぶことによって、私たちは「自分の成り立ち」を直接知る、ということにもつながるのではないだろうか?