2020年4月7日火曜日

近くで花見

近くに誰もいない場所があるので、写真を撮ってきた。
今年の花は特に美しい。コロナさえ流行っていなければ、素晴らしい花見日和になったであろうに。

春蘭。春の藪に咲く花。

椿も満開だ

桜は今がちょうど見ごろだろう

わさびの花も咲いていた

ひすいに太陽の光

ついに新型コロナのために、緊急事態宣言が出されることになった。
こうなっては、家にいるのが一番良い。いままでは注意しながら登山や翡翠拾いもしよう、と思っていたのだが、考えを改めざるを得ない。
Webで検索すると、実際に感染した人の激しい症状の体験談を読むことが出来るのだが、これは絶対にかかってはいけない病気だと痛感した。

良いお天気が続き、外に出たい。しかし、行けない。
行くまでに使う交通機関、たくさん人が集まる場所のことを考えると、やめておいたほうが良いと思った。
もしも感染すれば、自分だけの問題ではなくなる。

デスクワークをしながら、さんさんと降り注ぐ太陽光に、以前拾ってきた翡翠を含んだ岩を当ててみる。
なんとなく、癒された気がした。自然の力は偉大だね。
こんな石ころの中にも、大自然は宿っている。
何億年もの歴史を感じることが出来る。

もちろん、私たち自身の中にも、大きな力があるはずだ。
どんな悪質な病原体にも打ち勝つ力が、あるはずだと信じよう。

何度も載せているグリーン翡翠。太陽の光がいちばんきれいに見える。

今まで気にも留めなかったグリーンのスポット。

自分の持っている中で一番光を通すもの。透明な緑の部分がある。

これはうまく写真に撮れなかったが、全体が薄い緑色に発色する。

黒翡翠にも光を当ててみる。これは黒い部分が少ないタイプ。太陽光に当てると、ようやく結晶が確認できた。

2020年4月5日日曜日

本格的な感染拡大が始まる

荒れる日本海
新型コロナウイルス感染症が深刻さを増している。
4月にもなれば治まってくるだろう、と思っていたが、治まるどころか、指数関数的に患者数は増加。
ニューヨークなどではベッドが足りず、「トリアージ(命の選択)」を迫られるような、厳しい事態になっている。

NHKのサイト

ニューヨークの状況

特効薬が存在せず、重症化のスピードが速い。
いよいよ本格的に牙をむきつつあるウイルス。
なぜ国や自治体が緊急事態を宣言しないのか、甚だ疑問である。日本医師会は「早く緊急事態を宣言して人々の移動を制限しないと、医療崩壊を起こす」と警告している。

ノーベル賞受賞者の生物学者、山中伸弥教授も、HPを開設してその深刻さを訴えている。

ここまでひどくなってくると、仕事以外の外出は控えなければならない。
国が緊急事態を出す前に、かなり広範囲に広まるだろう。

できればこの週末前に、緊急事態を宣言してもらいたかった。
東京から「コロナ疎開」して、地方に多くの人が流れている。
この状況の中を移動するだけでも危険である。
家の中でじっとしているのが、一番安全だと思う。
電車やバスでの移動は、とても危険である。

このような状況になったからには、不用意に出歩くことはできない。
登山や散歩ですら、危険。
ましてや、街に出たりすることは、本当にやめておかなければならない。

まったく大変なことが起きている。

近く、ヨーロッパやアメリカののようになると思う。

自分の身は、自分で守ってください。政府は信用できない。

2020年4月2日木曜日

死神の教え


インドの古典「ウパニシャッド」は、ちょうど仏教がインドに興ったころに出来たとされている文献である。
紀元前600年から500年ごろであるから、今から2500年以上も前の話である。

この中の一つ「カタ・ウパニシャッド」は、死神との対話を描いた物語である。

あらすじを述べると、

坊さんに布施が運ばれていく様子を見ていたその家の息子が疑問を持つ。
「その布施は誰に与えられるのか?」とその家の家長である父に何度もしつこく尋ねたため、父は怒り、「おまえを死神に布施するのだ」と言う。

そのため息子は死んでしまい、死の国へ旅立つことになった。

その途中、息子は死んだ人が後から後からやってくるのを見る。

見よ、過去の人々と同じように、反対(=未来)の方向を見よ、あとから来る人々もそのようだ。人間は穀物のように成熟し、穀物のように再び生まれてくる。

死神の家に着いた息子は、死神が3日間不在であったので、帰ってくるまで待たされた。
死神は帰ってきて、その失礼を詫び、代わりにどんな願いでも3つだけかなえてやろう、という。

息子は、まず父の怒りを解いてくれるように願う。
そして次に、天国に導いてくれるお祭りのやり方を尋ねる。
これら2つに死神は快く応じる。

しかし3番目に息子が

死んでいった人について、疑問があります。-「彼は(死後の世界に)存在している」という人々もあり、他方「彼は(どこにも)存在しない」という人々もあるのです。このことについて、私は知りたい。これが3番目の願いです。
このように問われた死神は、これについては古来神々ですら疑問をもった難問であり、教えたくない、と言う。その代わり、どんな世間の享楽でも与えよう、と言う。
息子はそのような享楽は無常であって、価値のないものだ、と言い、死後の世界のことを知ることのほうが、ずっと価値があるのだ、と死神に詰め寄る。

死神は仕方なく、死後の世界について語り始める。

その内容は深遠そのものであるが、欲望のある者は輪廻し、この世の欲望に惑わされない者は、人が生まれもせず、死にもしないような世界を知る、というようなことが述べられている。
それは体験するしかなく、言語表現の領域を超えた世界である、と。

これは仏教の教えの中にも繰り返し現れるテーマである。
生き、悩み、苦しみ、最後には死んでいく、この世界の果てはどこにあるのか?
その原因は何か?
そしてそれを免れることはできるのか?

物欲や金銭欲などの欲望が満たされたとしても、この繰り返しをずっと続けるだけである。
永遠に満たされない欲望を追い続けることが、輪廻なのである。

これを静めるには、欲を起こしている原因が「追い続けることそのもの」であることを知るしかない。
何かが手に入れば、さらに良いものが欲しくなるだろう。
その繰り返しをやめない限り、決して精神が満足するということは、ないということだ。

生きている限りは、いやがおうにでも、生きなければならない存在が私たちだ。
ただ、そこでふと、求めているものの本質に目をやることによって、しばしの休憩を得られることは、あるのかもしれない。

死神の教えは、そのことを気づかせてくれる貴重な教えである。

2020年4月1日水曜日

美しいと思った石たち

石を拾うとき、まず大事なのが「きれいな石を拾うこと」だとは前にも書いたと思う。
その石がどのような石であっても良い。鉱物学的な価値なんてものは人間が後から考えだした虚構に過ぎない。そういうものに惑わされると「本当に美しい存在」を見過ごしてしまう。

自分の美的感覚でも、直観でも、何でも良い、そういうものを大切にすると、いい石拾いができる。
その存在自体が放つオーラというか、存在感というか。それを感じることがたいせつである。

下に紹介するのは、そういう石たちだ。ひすいであるとかないとかは、まったく関係ない。
ほとんどが石英に類するものだと思う。
石というのは、ほとんどケイ素を含まないものはないのだから、それでいいだろう。
わずかな質の違いによって、ごみみたいに捨てられている石をよく見かける。
下の石の中には、翡翠ハンターが捨てていった石も含まれる。
彼らは多分、ひすいの方が大切で「美しさ」なんてどうでもよいのだろう。

大小さまざまな美しい石たち。個性派ぞろいだ。

翡翠ハンターが捨てていった石の中にあった、美しい玉髄(カルセドニー。カーネリアンともいう)。光を通すとこんなに美しい。

純白の石英。これは浜辺でひときわ異彩を放つ白さだった。こんな白い石が美しくないわけがない。

含ザクロ石角閃石片岩だと思う。大きなザクロ石が美しい。

紫色の玉髄だと思われる。透過色の美しさはすばらしい。

ネフライトではない。多分オンファス輝石というものだろう。この黒と緑のコントラストが美しい。

ちいさなカーネリアンだろうと思う。

ひすい

緑玉髄か、アクチノライトか。自分が持っている石の中で、最も緑色が濃いもの。
どんな鉱物でも良い。
自分が美しいと思うものを拾えたら、それで十分だ。

どんな石でも、それぞれに個性があり、それぞれが貴いのだ。