2020年9月12日土曜日

薬師岳と有峰びと

高瀬重雄編『白山・立山と北陸修験道』 、1977、名著普及会、p.414


鍬崎山より有峰湖を望む 2020/6

『白山・立山と北陸修験道』という本に、「薬師岳の信仰と有峰びと」(広瀬誠著)という論文が収められている。

これは薬師岳について一般的に目にすることができる数少ない資料である。これはさまざまな資料や口碑から有峰と薬師岳についてまとめたものである。

これによれば、薬師岳はその昔、山の名前すら知られていなかった。江戸時代の資料には「飛騨薬師岳」とされており、富山県の山であるにも関わらず、飛騨文化圏の山であったことがわかる。昔は「神崎山」と言われ、鍬崎山と対を成す名前であった。

ふもとの「有峰村」は、伝説では飛騨高原城主の江馬氏の家臣河上氏の残党が興した村であったという。しかしそれ以前にも人が住んでいたことは明白だという。

有峰村ははじめ「ウレ」または「ウレイ」と言われており、それに「有峰」の漢字を当てたのである。

「ウレ」とは大和言葉で水源地の辺鄙な里、を意味する語であり、『万葉集』にも用例がある。

薬師岳を開山したのは、「ミザの松(ミザは神の依り代を表す”御座”に通じるように思われる)」という駕籠の担荷棒づくりをしていた男であり、有名な霊山のように、支配層の武士や僧侶ではない。名もない木こりによって、開山されたのである。

ある日ミザの松の枕元に薬師如来が立ち、ミザの松を「五ノ目」の自然石のところまで導いて姿を消した。

この「五ノ目」が薬師岳のどの辺りを指すのかは分からない。ただ、五の塀に五ノ目堂があったらしいことは分かる。

立山では五の越から山頂に至る。薬師岳でも五の塀から山頂に至ったらしい。
立山の「一の越」は2700m付近にある一の越山荘である。五の越は一の越山荘のだいぶ上であることになる。まっすぐ伸びた尾根に「塀」が位置するとしたら、今の薬師岳山荘の辺りに「五ノ目堂」があったのだろうか?

『有峰の記憶』(桂書房)によれば、

五十嶋一晃(太郎平小屋グループ経営会社五十嶋商事㈲社長の実兄)は「三ノ塀を薬師山荘あたり、五ノ塀(五ノ目堂)は頂上二七〇m手前の中央カールを背にした岩稜を指すと推察する」と比定している。 (前田 英雄『有峰の記憶』)

と言うから、薬師岳山荘の辺りは「三ノ塀」であり、五ノ塀は東南尾根の分岐手前である、ということになる。

『旧薬師岳登拝道』今昔小話②当時の登拝と道中の名所 というページを参考にしました。広い範囲から情報を集め、旧登拝道を推測されたりしており、非常に興味深かったです。)

薬師岳山荘より上は、ザレの多い場所だ

しかし、薬師岳山荘が三ノ塀である、とすれば、その上はザレた広い尾根であり、このような場所に堂があったとはとても思えないのである。おそらくあったとしても、非常に小さなものではなかっただろうか?さもなければ風雪に耐えられなかったであろう、と思われる。現に今、そのような堂のあった痕跡は無い。

ケルンのある東南尾根分岐まで登ると、東側斜面に大きな中央カールを見る。ここは「カラ地獄」と呼ばれていたらしい。昔の人はこれを火山の噴火口だと考えたようで、噴煙の上がっていない地獄(噴気孔)だから「カラ地獄」なのだそうだ。

有峰では旧暦6月15日に「岳の薬師祭」が行われ、この時に村人の男子が総出で薬師岳に登拝し、稗から作ったお神酒を供え、願い事のある者は鉄剣を奉納したという。これは剣の祭祀用模型のようなものであり、鉄板をくりぬいたようなものであったという。

道中3回の禊を行い、厳格な女人禁制だった。

山頂のお堂


深田久弥『日本百名山』には、深田が登頂したとき、たくさんの鉄剣が奉納されていたと書かれている。
この論文を書かれた広瀬誠氏も昭和27年に登った時には、たくさんの鉄剣を見たと書かれているが、その後昭和41年に登った時には、持ち去られて何も無かったらしい。

山頂の堂にある薬師如来像は元は50cmぐらいの黄金立像であったが、数回盗難に遭い、今も所在が不明だという。現在あるものは後に作られたもので、麓の大川寺の住職が薬師岳の山開きに合わせて毎年山頂まで運ぶ。本年度はコロナウイルスの影響で、山荘のスタッフが運んで安置した。10月の閉山まで、山頂に奉納される。

一度目の盗難があったときは、大阪で発見され、その時は有峰の人々が総出で大阪まで迎えに行ったという。その時の旗が、昭和27年まで残っていたらしい。

またこの論文には、ほとんど記録が残っていない黒部五郎岳の山岳信仰の事が書かれている。

山頂の自然石に「〇〇山祇大神」「中之俣白山神社」と書かれていたという。今あるのは不動明王の像で、ずっと後世に安置されたものだと思われる。

有峰村の人々は素朴な習慣を残していたが大正9年に村が解散し、村は昭和36年に有峰湖の底に沈んだ。昔をしのぶものは、残された資料と、薬師岳の雄大な景観以外、何もない。