2020年11月29日日曜日

純粋でないほうが強い

 

純粋でないほうが面白い

ひすいは純粋な形で自然界に存在することはまれである。
たいてい、蛇紋岩や曹長岩などが混じっている。エジリン輝石、コスモクロア輝石、オンファス輝石などはひすいの変種であるが、これも純粋とは言えない。
一方のダイヤモンドは”純粋な”炭素の結晶である。

ダイヤモンドは一番硬い物質であるが、強い衝撃を加えると、簡単に割れてしまう。
一方のひすいはハンマーで思い切り叩いても割れることは無い。
これはひすいが、粘り強い硬さ(靭性)をもっているからだ。
ひすいは細かい結晶があつまった集合体で、単結晶のものはめったに見られない。
また、その間隙にさまざまな不純物を含んでいる。
これらの要素ががひすいの強さを作っているのだ。
ちょうどコンクリートに、鉄筋や砂利が入って頑丈さを作っているように。

何でも集まっているものは強い。
人間の知識でも、いろいろな知識が集合していると、柔軟性があり、いろいろな状況に対処できるものだ。

何でも、状況に合わせてパッチワークのように作り上げ、生活の用を足すアマゾンの先住民は、現代人と比べてたくましく見える。
科学なる一つの方法でしか対処できない現代人は、状況を分析してその場その場で臨機応変の対応をすることが出来にくいように思う。

野球にしてもそうだ。ひとりひとりの選手は無名でも、有名選手をかき集めて作ったチームに楽に勝つことがある。
それは、ひとりひとりの力が強くても、その「関係」の力が無いとどうしようもない、ということを示している。

『野生の思考』では、「ブリコラージュ」(器用仕事)のすばらしさが強調されている。
何かの役に立てるため、分析的知性を最大限に使い、その状況に最適なものを生み出す能力が人間には備わっている。
「科学理論による設計」によって作られるものより、もっと直接的に役に立つものをその場で作ってしまうのである。
これは「いいかげん」である、として今までの世界では忌み嫌われる傾向があった。
科学の作るもののほうが、エレガントで知性的だ、という理由で。
これは、とてもつまらないことではないか?

物を食べるのに「銀のスプーン」を使う必要は必ずしもない。
そこら辺に落ちている空き缶を石でたたいて作ったスプーンでも、物を食べることは出来るのであるから。
どちらも「物を食べる」ことには変わりはない。
ただ、その「形」が違うだけである。

2020年11月28日土曜日

医療崩壊寸前

 


夏の間はおとなしかった新型コロナウイルスがまた猛威を振るってきた。
東京、大阪など大都市圏では、急速に感染が広まってきて、医療崩壊寸前である。
今は、特に登山は控えておいたほうがよさそうだ。今まだ余裕があっても、今後3週間の間にどんな状況になっているか、まったく予想できない。病院に迷惑をかける可能性のある「危険行為」はしないほうが良い。

なかなか終息の兆しが見られないコロナ。
自然のリズムの中で、人間が自然破壊を繰り返し、科学の名の下でバランスをおかしくしてしまった結果なのかもしれない。
科学は人間中心主義の思考法である。人間以外の存在は「物」「物質」でしかない。
「西洋文明」が一番優れている、という思考は批判されたが、今度批判されるのは「人間」中心主義かもしれない。

昔の人たちは、自然との共生を社会のシステムに組み込んでいたと思う。
今のように、電気も石油も何もない状況の中で、木を燃やして暖を取り、畑を耕作し、海で魚を釣り、生きていたのである。医療も進んでいなかったので、多くの人が死んだのであるが、それも自然のバランスを保つ要因だったわけだ。
人間だけが数を増やすという状況にはなりえなかった。

人間は自然を「敵」とみなして発展してきた。厳しい自然環境を変えることで、これだけ数を増やしてきたのである。
「人間中心主義」が生まれるのは、当然の成り行きだったと思われる。

しかし、あまりにもそれが進むと、自然の循環システムが壊れてしまう。
地球は一つの生命体だ、という「ガイア理論」によれば、人間はバランスを壊している最大の存在だ。

自然のシステムがバランスを取るためにコロナウイルスを送り込んできた、とすればとても恐ろしいことだ。
われわれは、自然にとって「多すぎる」存在だとみなされているわけであるから。

自然を「敵」だとみなして発展してきた人類は、逆に自然にとって「敵」でもあったわけだ。

2020年11月27日金曜日

『野生の思考』が愛読書のわけ

 


クロード・レヴィ=ストロースの『野生の思考』という本が好きな理由を書いておこう。
レヴィ=ストロースは人類学の偉大な学者であるが(10年ほど前に100歳ぐらいでご存命であった)、単なる人類学者ではなくて、世の中のものの考え方(思想)分野に大きな足跡を残された学者である。
「構造主義」という、物事の背後にある「モデル(構造)」を発見する学問を進めた人であり、非常に広範な教養を持っておられ、一時代を作った学者である。

今となっては古典であるが、『野生の思考』は当時の実存主義哲学者であるサルトルに対する「論難」の書である。サルトルは当時のヨーロッパ哲学の最先端を行く「哲人」であった。

西洋哲学や科学が、ヨーロッパ独自の発展であり、もっとも高度な思考であり、その他の「未開民族」の思考は動物に近い程度の低い、愚かな思考方法であり、進んだ西洋文明によって啓蒙されて当然である、という考え方を、レヴィ=ストロースは見事に論破する。
事実、「未開民族」とされていた人々の思考は、構造において「西洋科学的思考」と等質である。つまり劣ってもおらず、優れてもいない。

『野生の思考』はとても難解な著作であり、理解することがとても困難で、今でも「するめを噛むように」楽しんで読んでいるのだが、何度読んでも着眼点のすばらしさ、ものごとの背後にある「言葉では言い表せない」ほど複雑な「構造」をあきらかにしようという姿勢には心を打たれる。
この「構造」は人類共通のものであり、環境によって動的に変化する。
半世紀前にレヴィ=ストロースによって提示された課題の一端が解明されつつあるのであるが、この書がいかに独創的な着眼点をもっていたか、示すにはこれで十分であろう。

「構造主義」は様々な分派をしたが、その基本は「ものごとの背後にある普遍的な仕組み」を解明する点、または、「明らかにされえない部分」を示すこと、である。
すべての物事が「明らかにされえない」ことも確かである。人間の知性の限界、というものは確実にある。
『野生の思考』で示されるモデルは、複雑な人間社会の「構造」の最も単純化されたモデルに過ぎず、これをもってすべての「構造」が明らかになるわけではない、ということを知らなければ、著者の意図を誤解してしまうことになるだろう。

著者が一番言いたかったことは「西洋文明」ですべてが解決できるわけではなく、かといって「未開社会」の文明がすべてを解決していたわけでもない、という事である。

あくまでも「人間の思考」の限界が、どの辺にあるのかを示しただけである。

2020年11月18日水曜日

曹長岩に付いている石

以下の石は、曹長岩で良いと思うのだが、付着している石が何なのか、判断に悩む。
光を良く通すから、石英だとも言い切れない。石英ならば、黄色っぽい光の通し方をする。
これは純白というよりは、少し青っぽい。

石全体はカクカクしており、硬そうな感じ。
表面はつるつるしている部分もある。
ひすいのような、微細な結晶も見られる。しかし石目が無い。

とてもきれいなので、キープしているが、こういう石はほんとうに悩ましい。
 
光を通すと、少し青みがかった色。なんだろうこれは?
灰ひすいとも少し感じがちがうような。
ガラスみたいな

 

コロナがまた流行してきた

 


各地で新型コロナの感染者が過去最多を更新している。
そういえば最近は警戒していない人が目立つようになっていたな。
国もGO TOキャンペーンを中止するつもりは無かったようだし、その影響でずいぶん混雑するところも出ていた。
まだまだ、もとの生活に戻るのは早すぎるということであろう。

こういうことは国が率先して動いてくれないと、どう判断してよいものか、分からなくなる。
ある人は警戒し、ある人はまったく問題にしていない状況がある限り、感染拡大は止められない。

ワクチンにしても、言われているほどの効果があるのか、ウイルスが変異しても効くのか、副作用はあるのか、まだ分からないことだらけだが、もしも本当にワクチンが開発されたら、私は受ける覚悟をしている。
コロナを恐れながらなにも出来ないなんて、悲しすぎるからね。