2025年1月10日金曜日

What am I to do?

 Stable Diffusion 3.5という画像生成AIに、以下のテーマを与えて、画像を生成したら、とても良い絵ができたので、載せてみることにした。


与えたプロンプト:

Japanese mountains, and the man who walks around them. He says: ‘What am I to do?’ 

 At that moment a man appeared and said. ‘You must be honest with yourself.’

「日本の山、そしてそれの周りを歩く男。彼は言う「私は何をすればいいのだろう?」。その時、ある男が現れて言った「君は君自身に正直になりなさい」」

2025年1月6日月曜日

石と人間社会

 

新年、あけましておめでとうございます。
今年もいろいろ活動したいのだけれども、ちょっと人間関係で忙しくなりそうな雰囲気。
人間社会というのは、いろいろな軋轢があって、面倒だな。
そもそも、海岸の石ころのように、まったく同じ人間などいないのだから。
「みなさんは平等に人間なのです」と言えば、かならず文句を言う人が現れるし、
「それぞれ自分の思い通りにやってください。自由なんですから」と言えば、社会がばらばらになってしまう。
実に難しいのが人間社会というところだ。

海岸の石ころは、一様に大きさが似通っており、丸みを帯びている。それは厳しい自然環境にさらされて、角が取れているからである。
糸魚川あたりの、山から距離が近い海岸の石は、固い部分がのこっているのか、どの石も簡単には壊れたりしない強靭さを備えている。
しかし普通は、どんなかたい岩石でも、海岸にまで至ると、砂粒になっていることがほとんどである。
それが集まって「砂浜」を形成していることが多い。

人間も年齢を重ねれば、ある程度角が取れているものだ。しかし、中心部の頑丈なものはそのまま残っている。これは軋轢を生むことがある。
それはとても強く、簡単に割れない。割ろうとしても無理である。

だとすれば、それは自然にできたその人のその人らしさであり、否定すべきものではない。
そういう存在が無数に集合して、人間社会というものが出来上がっているのだ、と思っている。

2025年1月1日水曜日

地学の価値

 高校地学の本

よく文系で「役に立たない学問」の代表とされるのが「哲学」である。
一方の理系では「役に立たない学問」とされるのは「地学」であるらしい。
高校での選択率は1%ぐらいだという。
したがって、ほとんどの人は中学の理科で地学を学んだだけだ、ということになる。

しかし、私はこの「役に立たない」学問に非常に魅力を感じてきた人間である。
「哲学」は「物事の意味やこの世界の成り立ちの根源的なものを、論理的に追及する学問」であり、「地学」は、ふつう疑問にも思わないような「地面」を詳しく研究する学問である。
どちらにも共通するのが「あたりまえのものを、深く探求する」ということである。
ふつう人が興味を持たない対象に関して、深く知ろうと試みる。

地面は、どんな石でできているのだろうか?
そんなことを普通はだれも知りたがらない。
「そこにある」ものを深く考えてみても、何の役にもたたないからだ。
そんなことを学ぶ暇があったら、他人より一円でも儲ける理論を知っていたほうが良い、と思っている人が大半ではないだろうか?

しかし、世の中、それでいいとは、私は思わない。
むしろ、そういう「あたりまえ」の物事の中にこそ、新しい発見があるのではないか?
人が幸せになるためには、たしかにお金は大切だろう。
だが、お金だけで世界を見てしまうと、利益の他のものが見えなくなってしまう。
実際「利益」以外の場所はとても広いのだ。
すべて利益で考えると、山や海岸の石などはまさに役に立たない「石ころ」である。
そんなものは本当に「掃いて捨てる」ほど多く、膨大な量である。
人間はその中のほんのごくごくわずかしかない「金」「レアアース」などになら血眼になる。
なぜならそれは「利益」を生むからだ。
地学はそのような希少な金属元素を探索する目的の学問ではない。それは鉱物学や鉱山学などの別の分野の学問になるだろう

地学はまさに役に立たない「石ころ」や「泥」を対象にする学問だ。
そこから、地球や宇宙の成り立ち、仕組みを考える。
とても奥深く、壮大なスケールの学問ではないだろうか?
こういう学問が重視されなくなると、世の中は余裕のない、息苦しい世界になってしまう。
大都市がコンクリートで覆われ、大地が見えなくなっている状況は、まさに現代社会の状況を象徴している、と言えないだろうか?

人間はもっと大地に触れた方が良い。
大地と切り離されると、人間は本当に枯れてしまう、と思う。
そのために地学はもっと注目されてもいい学問ではないか?
それを学ぶことによって、私たちは「自分の成り立ち」を直接知る、ということにもつながるのではないだろうか?

2024年12月24日火曜日

ほとんど登れない年



今年は数回しか登山しない年になった。
忙しいことが多く、登山にも海にも行けなかった。

こういう状況でなかった今までが単に暇が多かっただけなのかも。
また、年々気象条件が厳しさを増しており、気持ちよく登山出来たり、海岸に出られたりすることがほとんどなかった。

自然に呼ばれず、人間に呼ばれている感じがする。
まあ、それはそれで良しとしなければなるまい。

だんだん山が遠くなっているようだ。
行きたいと強く思えば思うほど、遠ざかっているような気がする。
しかし、登山はやめたくない。

素のままの大自然に身を投じる行いは、やってみた者でなければ分からないと思う。
なんでそんな危ないことをするのか、と人は言う。
しかし、ずっと仕事をしていても、家にいても、病気になったり死んだりするだろう?

息が詰まりそうな人間社会を飛び出して、無限の広さを見に行きたい。
車で登るのではだめなのだ。やはり自分の足で行かないと。

山が恋しい、とは言わない。なぜなら、そこは危ないからだ。
では、なぜ行くのか?矛盾じゃないのか?と人は言うだろう。
愚かなやつだと。
でも、その「愚かな」行為が、かけがえのない体験と健康を与えてくれるのだ。

2024年12月12日木曜日

十二様 山の神

 


日本の有史以前すなわち、古代の事を述べると憶説になる場合がほとんどだ。
やはり決定的な証拠が存在しないからである。論理実証主義である「科学」では、何らかの考古学的証拠に基づいて、この時代にはこんなことがあったのではないだろうか、と想定する。有史以前の歴史を示すものは、遺跡や遺物である。これらから、考古学者は当時の暮らしがこのようなものであったのではないだろうか、と推定するのである。
また、伝承や口伝資料、古文書に基づいて古代の出来事を想定する方法もあるが、これは本当に事実を伝えているのか、疑わしい場合もある。事実が歪曲されたり拡大解釈されていることは普通にあるからだ。
口伝や伝世史料を用いる場合、それによって論を進めると、矛盾が生じる。
それはもとの史料自体が、当時の人びとの様々な思いを述べているものだから、当然である。
この場合は、とかく思考が脇道に入りやすくなる。ややもすれば、著者の思いを述べただけ、ということにもなりかねない危険性を含んでいる。
ともかく、それらの史料から、山の神がなぜ「十二様」と言われるのかを論じた書物に、吉野裕子『山の神』がある。
これによれば、山の神は陰陽五行説によって、イノシシであることがわかる。すなわち、もとの山の神は蛇であったが、これを陰陽五行の図に配置し、これの正反対側に位置する動物は何かを調べるとイノシシである。イノシシは十二支の最後の動物なので、十二という数が導かれる。なぜ反対側に配置する必要があったのか、と言うならば「以前の山の神とは区別しておく必要があったから」だ、という。
また、『易経』に説かれる坤(こん)は、全て陰を表すから女性を意味する。これが山の神は女性である、という根拠になる、と。
確かに、修験道を実践した山伏、それ以前の陰陽師などは中国から伝わった陰陽五行説に対する知識をもっていた、と思われる。
これらの人々が、山に住んでいた人たちの呪術的な嗜好を満たすために、祭祀を伝えた可能性は大いにあるだろう。
十二という数がなぜ現れるのか、これ以外に説明は難しいと思う。
ただ、これも一つの説であり、実際は縄文時代の大湯環状列石にみられるような日時計の構造が、十二という数の根拠になりえる可能性もある。
古代の事は想像にしかなりえない。あまりにも現代とは時代が遠すぎるからである。
それについて、何か確実な事を言おうとすると、想像が尽きないことになるだろう。
まあ、それが面白いのだ、と感じる人が存在するからこそ、民俗学や歴史学が存在するのだろうが、私自身はそれらに対して、あまり共感はできない。面白いなあ、とは思うけれども。

山の神の祭りは11月7日とか、11月23日などにも行われるが、特定の月の12日の場合が多いという。
特に12月12日が山の神の日である、とされるのも、この陰陽五行説に従う限り、納得できる。

山の神の日には、決して入山してはいけない。
山に入るとけがをしたり、戻ってこれなくなったりなど、いろいろな祟りを受ける、と言われている。