2025年5月23日金曜日

金剛堂山 このブログでは10回目 東俣登山口経由20kmトレイル

 このブログを始めてから、今までに9回この「金剛堂山」に登ってきた。以前のブログでも6回ぐらい記録があるから、おそらく10回ぐらいは登っているだろう。
何度も登るのはこの山が好きだから。
標高差約1000mで歩行距離12km(奥金剛往復時)ぐらいで、とても歩きやすい。
一年を通して愛してきた山である。
この山の魅力は何回語っても尽きることは無い。何回登っても飽きないのだから。
今回は東俣登山口から下山する20kmのコースを歩くことにした。
気温が高かったが、雪渓が多く、意外と涼しく歩けた。奥金剛より奥は、登山道が明瞭でない箇所もあり、道迷い注意。

片折峠から。タムシバの花が咲く。しかし例年と違うのは、冬季の大雪によって、登山道が壊れている場所がかなりあること。完全に落ちていた場所もあったので、注意してください。

下界の気温は30度を超えていたが、残雪のおかげで少し涼しかった。この時点で9時ちょっと過ぎ。周回コースならベストなコースタイムだ

毎回この風衝平原には癒されてきた。前金剛を望む

東俣峠に下りる登山道から、奥金剛を望む。ここまで、登山道が明瞭でないこともしばしば。GPSを頼りに、残雪の上を歩いたり、藪漕ぎをしたりしながら、歩みを進めた

初夏のさわやかな風

東俣林道には大量の残雪があり、除雪作業が行われている途中。まだおそらく2mぐらいの残雪があり、固いのでショベルカーによって除雪されていた

すさまじい雪崩で道がふさがっていたのだろう。開通したばかりの雰囲気のある切通

雪解け水で川の流れが速く、涼しかった

今の時期から以降は、クマスプレーが必携。


2025年4月25日金曜日

2025年7月5日に地震は起こらないだろう


 巷で話題になっている漫画家さんの予言では、2025年7月5日に地震が起こる、という。
わたしは、この予言に対して、以下の反論をしておく。


1,未来をあらかじめ知ることはできない

まず、未来を知るためには、複雑系であるこの「宇宙」の現象をすべて正確に把握していなければならない。これはどのようなコンピュータを使っても、情報量が膨大になるため、不可能である。しかもそれらの相互関係を精確に計算できなければ、おおざっぱにも予測することはできない。人間の限られた脳が、これらの計算を行うことは出来ない。
したがって、人間は未来を知ることはできない。


2,仮に予想できたとしても、矛盾が生じる

2011年3月に起こった地震を予測できたのであれば、2024年1月1日に起こった能登半島地震も予想できているはずである。しかし、実際には予測されていないようだ。
したがって、2011年の地震予測は偶然に一致したのである。
偶然の一致はほぼランダムに起こるので、これが特殊な能力によって起こったとは言えない。


3,科学的観点

地震の予測は、スロースリップや発生間隔などの研究によって、発生確率に関しては、確かに計算されている。しかし、これはあくまでも確率であって、必ず発生することを意味するわけではない。
発生する恐れのある期間も数十年の間、という漠然としたものでしかない。
一方の漫画の予言では、日時をかなり限定して予測している。
その根拠も「夢で見た」という、オカルト的な概念に基づく。

以上のような理由から、この予言は全く信用するに値しない、と判断している。
仮に本当に起こったとしたら、それはほとんど起こりえないような偶然の一致である。
その確率は、仮に30年間に80%の確率で、30年間の日数=10,950の内の特定の1日に地震が起こるとして考えてみる(実際には計測の誤差なども含み、80%という確率がどの程度確実なのかもわかっていないので、もっと低くなる可能性もある)と、

  1. 30年間で起こらない確率を求める: 30年間で80%の確率で起こるということは、30年間で起こらない確率は 1 - 0.8 = 0.2 (20%) です。

  2. 1年間に起こらない確率を求める: 毎年同じ確率で起こる場合、30年間起こらない確率は、1年間に起こらない確率を30回掛け合わせたものになります。つまり、1年間に起こらない確率を x とすると、x^30 = 0.2 となります。

  3. 1年間に起こらない確率から、1年間に起こる確率を求める: 上記の式から x を求め、1 - x で1年間に起こる確率を求めます。

  4. 1年間に起こる確率を、1日の確率に換算する: 1年間に起こる確率を365で割ることで、1日に起こる確率を求めます。

つまり、

30年間に80%の確率で起こる事象が、特定の日に起こる確率は、約 0.0146% となります。


私は0.01%以下ぐらいの確率で起こる事象を、心配する必要はない、と思う。
隕石が自宅に落下する確率、飛行機事故で死ぬ確率、宝くじに高額当選する確率に似た確率だ。
そんなものを心配して生きていたら、道も歩けないではないか?

2025年3月14日金曜日

久しぶりに牛岳登山 クレバスに落下

 久しぶり、10月以来の登山になるだろうか。
ようやく、山に行くことができた。
しかし5か月ほどのブランクは大きく、足の筋肉の衰えを感じた。
その所為だろうか、転んだりバランスを崩したり。
しかも今日は大雪の名残の雪がざらめ状態で1m以上残っている状況。
スノーシューを持って行かなかった。3月にスノーシューなど不要だと思っていた。
実際に歩みを進めると、ほぼ確実に深く踏み抜き、まるで新雪の後のような感じがした。
このため、頂上に着いた時には、へとへとになってしまった。ほかの方々は皆、スノーシューを装着されていたのに。

帰り道、クレバスに落ちてしまった。まともに落ちていたら、たぶん上がれなかった。
運よく、ザックに引っ掛かったので、なんとか上がることができた。
とにかく、雪の状態は最悪だった。3月でスノーシューが必須だという状況は、想像すらしていなかった。

帰り道、転落したクレバス。危なかった。




最高の快晴だったな





山頂
















2025年3月6日木曜日

AIによって何かが阻害されるわけではない

 


「続けること」への迷いが、生成AIによって増えているのかもしれない|Alpaka

AIは、「全く」人間の仕事を奪う存在ではない。そのようなことは、決してできない。
それは今まで述べてきたことで明らかだろう。だいいち、AIは「意識を持たない」。
また自ら「意志」を持たない。そのように見えているだけであり、その実体は「乱数」である。
このような存在がどうして「創造」できるだろうか?何かを生み出せるだろうか?
AIの専門家たちは、このことをとっくに承知している。
そして、AIの限界も。
さらにそれを「どのように使ったらよいのか」も、知っている。それは、人間の検索の用途に対して、非常に有用である、というだけだ。
したがって、上のリンクで言われているような懸念は、まったく必要ない。

どれだけ巨額の投資をしてみても、「できない」ものは出来ない。
不可能なことは、不可能だ、という意味である。
巨大な乱数生成器に、どれだけ資金を投入してみても、「人間の頭脳以上の神」を作ることは出来ない。
むしろ、AIをこれほどまでに有用にしているのは、人間が今まで世界中で公開してきたデータの方である。
それは、過去に人間が「創造」した、様々な論文やデータの蓄積を、統計学的理論などを用いて、使いやすくしただけのツールなのだ。
決して「自ら考えて」いるわけではない。
考えるのは、人間の方である。
そこを間違えると、くだらないものに、巨額の投資をしてしまうことになる。

人間の脳はAIよりも、はるかに、はるかに優れたものである。
なぜなら、人間の脳は、生きているからだ。

その辺りを誤解しているひとがあまりに多い。
人間は、アメーバ一つほどの生命体ですら、ゼロから合成できない無知なる存在である。
ただ、それを自分の思い通りに操ることが得意な存在にすぎない。
決して、このような存在は「神」にはなれないのだ。

2025年3月2日日曜日

ハルシネーション

 


AIの本質がだんだんわかってきた。これは情報を集めるのには有用だ。特にプログラムを書くときには非常に有用だと思う。
しかし、AIで人間の書くような文章を作ることは難しい。なぜならAIは「行間」を読めないから。

人間は「書かなくてもわかる」ことを知っている。その書かれない部分というのは、もちろん書くのがためらわれたり、公に書いたりすることが良くない、あるいは、倫理的に間違っていることも含むが、たいていの場合は、相手の想像に任すという部分だ。
その文脈は、社会的な「不文律」やルールで自然と決まってくる。しかも、それは地域や社会によって違う場合もある。
それをAIが理解し、適切な回答をする、ということは、現時点ではありえない。

ある程度整った文脈、たとえば、プログラミングや数式であれば、AIは実に精確な回答を与えてくれる。
しかし、それが小説や文学や詩、俳句や短歌のようなものであった場合、とたんにでたらめな回答を生成するようになる。
しかも、その中には無理やり行間を適当な言葉で詰めたものも出来上がる。
これを「ハルシネーション(幻覚)」と言うらしい。
AIが幻覚を生成するとは、おもしろい発想だが、ようするにもっともらしい嘘を生成してしまうのだ。

まあ、我々自身の思考がすでに「ハルシネーション」の要素を多分に含んでいるのだが、AIのそれは、「ハルシネーション」らしくない幻覚というか、すぐにわかる幻覚なのである。

AIは人間の脳にすぐに追いつく、などと夢物語を語る人もいるが、完全に誤りである。
囲碁などのAIが人間の能力を上回っているのは、過去に人間が打った手をすべて記憶しており、統計的にもっとも数値が高い解答を利用しているにすぎない。
勝ちと負けしかないゲームには有効だが、それがそもそも存在しない人間社会という複雑系に対して対応できるAIが現れるという段階には程遠い。

たしかに昔のデータベース管理システムに比べれば、格段の進歩はあるのだが、やっていることは、本質的には変わらない。
「たくさんのデータの中から、最適なものを選ぶ」ということである。
この用途に使用する限りにおいて、AIはとても強力なツールになるだろう。